10話 守
「ただいま」
「おかえり~……って、びしょ濡れだしコトバ姉ちゃんもいるしどうしたの兄ちゃん!?」
キッチンにいた歌音が目を丸くしながら振り返った。
追い打ちをかけるような夕立に打たれて靴下まで濡れていた。さすがにこの季節の夕暮れは肌寒い。
俺はともかく、憔悴してる梔子が心配だ。
涙の跡は雨に消されてしまってるけど、取り戻した悲しみまで流されたわけじゃない。
すぐに暖めてやらないと。
「ほらこれ使って!」
歌音が気を利かせてすぐにタオルを持ってきてくれた。
「そのままじゃ風邪ひくからお風呂入ってお風呂!」
「わかった」
『ありがとう』
俺と梔子は髪を拭きながら、脱衣所へ向かおうとする。
「――っとまったああああ! なんでふたり一緒に行くのかな!? バカなのかな!?」
「おまえが言ったんだろ」
「歌音がゆったのはコトバ姉ちゃんにだよ! 風邪ひかないバカにはゆってないよ!」
「おっと寒気とめまいと発熱が。これは風邪かな」
「どっちにしろ兄ちゃんはバカだよ!」
心外だ。
とはいえ、さすがに梔子と一緒に風呂は難易度が高すぎる。
バカなやりとりをしてるあいだに風邪をひいたらそれこそバカなので、大人しく梔子に先を譲る。
梔子が脱衣所に消えると、歌音が俺の顔面にタオルをもう一枚投げつけてきた。
「ほら、兄ちゃんも服全部脱いで体拭いて」
「おおすまん。心配してくれてるんだな」
「床が濡れるから」
「優しい妹でよかった」
聞こえない聞こえない。
部屋着に着替えてから、ソファに沈み込むように座った。
息をついて目を閉じる。
体はそれほど疲れてないはずなのに、倦怠感で全身が重かった。
ため息を出すことすら億劫だ。
料理を再開した歌音がなにかの曲を口ずさみながら、包丁をトントントンと一定のリズムで刻んでいく。
風呂場からは控えめなシャワーの音。
その音に混じってなにか聞こえてきやしないかと、無意識に耳を澄ましてしまう。
……聞こえるはずもねえけどな。
いつも無口な梔子は、声に出して泣くことも叫ぶこともない。小柄な梔子の小柄な感情は、きっと風呂場でお湯と一緒に融けてしまって、俺には知ることができないだろう。
そりゃあ涙なんて見たくない。
けど、泣くなら俺の目の前で泣いてほしい。
ワガママなのはわかってる。そもそも俺が余計なことを言ったせいで、こうなってしまったんだ。
南戸に怒る資格なんて本当はなかった。むしろ俺が梔子を泣かせたようなもんだ。
「……どうすりゃよかったんだ」
選択肢はいくつもあったはずだった。
なのに俺が選んだ手段は、結局梔子を悲しませることになってしまった。その場の感情に任せて言い合ってこのザマだ。
歌音にバカと罵られても否定できない。
本物の馬鹿だ、俺は。
「ねえ兄ちゃん」
隣に、歌音が座った。
料理は終わったようだった。カレーの香りがリビングまで漂う。
「なにかあったのか知らないけどさ、いつも以上に暗い顔してるよ」
「いつもは暗くねえよ」
「ほら笑って笑って」
むにむに、と頬っぺたを触られる。
「……やへほ」
「やめないよ。歌音は妹だもん。兄ちゃんを笑顔にするために生まれてきたんだから」
なんだその超理論。
呆れたけど、歌音の表情は真剣そのものだった。
「兄ちゃんは歌音を守ってくれるでしょ。それはたぶん、血が繋がってるからってだけじゃないでしょ? 歌音だってそうだよ。妹だからってだけじゃない……歌音とツムギ兄ちゃんだからなんだよ。それ以上でも以下でもないんだ」
それは、たしかにそうだ。歌音の言いたいことはわかる。
だからといって無理やり笑わせるのはどうかと思うぞ。
「どうかと思うのは歌音のほうだよ」
ぎりぎりと頬っぺたを上に引っ張る歌音。痛い。
「兄ちゃんはいま自分のことで精一杯なんだよね。それは歌音でもわかるし、それでいいと思うよ。だけど兄ちゃんがそうなってるのって、コトバ姉ちゃんが原因ででしょ? それくらい聞かなくてもわかるよ」
「まあ、そうだけど」
ようやく放してくれた。
頬がヒリヒリする。
「なら兄ちゃんがひとりでウジウジ悩むのはどうかと思うよ。コトバ姉ちゃんのことなら、コトバ姉ちゃんと一緒に悩まないと根本的なとこでなんにもならないんじゃないかな」
「……そうか。そうだよな」
「そうだよ。ほんと兄ちゃんてばまったく、まったくだよ」
自己嫌悪に陥りそうになってた。それより大事な課題がまだたくさん山積みなのに。
妹に説教されるなんて、頼りにならない兄だ。
今に始まったことでもないけど苦笑するしかなかった。
「それと、もしコトバ姉ちゃんと一緒に悩めなくても歌音が一緒に悩んであげるから安心してね」
「安心するのか?」
「もう、なにいってんの」
歌音はあからさまに呆れた。
「同じ悩みでも、ひとりで悩むと後ろ向きになるけど、ふたりで悩むと前向きになるんだよ。知らなかった?」
また妙に説得力あることを。
ときどき歌音が怖い。破天荒な母と仕事に生きる父、平和主義者の俺。家族の誰に似て育ったのかわかりゃしない。
まてよ。ひょっとしたらうちの子じゃないのかもしれない。
「……じつは義理の妹って可能性が」
「ほんとに!? そしたら兄ちゃんと結婚できるね!」
「あ、そういや母さんがおまえを産む瞬間を俺は見た」
「ジーザス!」
本気でがっかりするな。
とはいえ、歌音が俺に伝えたかったことは、ちゃんと伝わってきた。
後ろ向きに悩まずに前を向くべきだ。
俺は梔子のためだと言いながら、自分が納得できないから南戸にぶつかった。
認める以外にない。
俺はバカで、ガキだった。
しかしその結果がコレだとしても、大事なのはこれからだ。
俺は考えなきゃならない。
今回のこと、これからのこと、そして梔子のこと。
歌音には迷惑をかけるだろう。相談もなしに、女の子をひとりうちに連れてくることになった。母さんはまた怒るだろう。呆れるかもしれない。でも母さんは鬼の歌姫と呼ばれても鬼じゃあない。理解してくれるだろう。
問題は梔子自身のことだ。
南戸の策略にまんまとのせられて、梔子は悲しみを取り戻してしまった。当然俺だって悲しんだ経験がないわけじゃないからわかる。
……今回だけの問題じゃないんだ。
梔子には、記憶を失ってからの一年半分の記憶はある。
そのなかで梔子が体験してきたこと、感じてきたこと、そのとき理解できなかったことでも、いまの梔子には悲しみとして認識できてしまう。
つまり、いままで見えなかったはずの傷が、いくつも同時に見えてしまうってことだ。
一年半分の痛みが、同時に襲いかかってくるのだ。
想像できるようなつらさじゃないだろう。感情を取り戻すってことはそういうことだ。
「だからこそ、だな」
だからこそ俺がしっかりしないと。
「兄ちゃんにしてはいい顔するじゃん」
「俺だってたまにはやるんだ」
虚言にならなければいいけどな、と心の裡でつけくわえる。
ちょうど梔子が風呂からあがってきた。髪に隠れて表情は見えないが、歌音がその濡れた髪を見て手招きする。おとなしく従う梔子をすぐそばに座らせて、その髪をドライヤーで乾かし始めた。
「……んじゃ、俺も風呂入ってくるよ」
「いってら……あ、ちゃんと風呂描写いれてね」
「アホか。誰得だよ」
男の入浴シーンなんて誰も求めちゃいない。
歌音はドライヤーのスイッチを切って、頬っぺを膨らませる。
「需要あるの! それに兄ちゃんってばいつも自分のことはモノローグで済ませて描写してないタイプでしょ。描写してるのどうせ白々雪さんのおっぱいばっかりなんでしょ」
「あいつの胸は観賞用だからな」
ロマンの塊なのだ。
「まったくもって論外だよ! いいからいまからお風呂入るんだからちゃんと描写してよね! とくに鎖骨ね! あと兄ちゃんいい身体してるんだから腹筋とか腹斜筋とか、そこらへんも忘れたらだめだよ! でも局部はやめてね十八禁じゃないから」
「なんの話だ」
「いいから言うとおりにしてよ! ぜったいだかんね! ビバ描写!」
「あ~はいはい」
その熱意にまったくもって共感できないんだが。
歌音が梔子の髪を乾かしながらなにか話しかけているのを横目に、俺は風呂場に向かった。
傷ついてしまった梔子を慰めるのは、俺の役目じゃない。俺にそんな大役がつとまるとは思えない。
けど、歌音ならうまくやってくれるだろう。あれはあれで優しいやつだ。
……だからまあ、たまには歌音の言うこともきいてやろうではないか。
うちのシャワーは水圧が強い。(描写)
口 口 口 口 口
風が吹いていた。
雲の塊が流れていく。星空を覆うようにあった雨雲たちは、いつのまにか散り散りになっていた。雨が降った方が空気が綺麗になる。とくに秋はその違いが顕著だ。
しぶとく残る上空の小さな雲に隠れて月はまだ見えない。
そのかわりに星たちが煌めき、空が明るかった。
息を吐きだしても白みはしないが、手先は冷たくなっていた。冷え性の俺にとっては多少つらいものがあるからこそ、頭は冴える。
「兄ちゃん、まだ寝てなかったんだ」
「……おまえこそ」
ベランダで空を見上げてると、歌音がいつのまにか後ろにいた。
歌音の生活リズムではとっくに夢のなかのはずだ。もう日付が変わろうかという頃なのに、どんな風の吹き回しだ。
「歌音もね、ちょっと眠れなくて」
「そうか。梔子は?」
「ぐっすり。疲れてたんだろうね」
それもそうだ。
梔子にとっては多忙すぎる二日間だった。
クラス展示が壊されて、ドッペルゲンガーを目撃して、徹夜してまで展示を直して、それでもダメで、やっと解決したと思ったらコレだ。
せめて眠りの中でくらい安息でいてくれよ。
ふと、夢を司る妖怪に祈ってみたくなった。
「すまんな歌音。梔子をひとりにさせるわけにはいかなくてな」
「ううん。コトバ姉ちゃんの様子みたらそれくらい歌音でもわかるもん。へいきだよ」
えへへ、と壁に寄りかかりながらはにかむ歌音。
「でも兄ちゃんだって疲れてるって顔してるよ。寝なくていいの?」
「眠りたくねえんだよ」
「どうして?」
「……なんか、違和感があって」
違和感というか、腑に落ちないというか。
風呂に入りながら、夕食を食べながら、部屋で寝る準備をしながら冷静に考えてみた。
……南戸のことだ。
遅かれ早かれ、俺は南戸とぶつかっていただろう。南戸が俺に言った言葉が本心だとしても違っても、こうなっていた可能性が高い。俺は詐欺師じゃないし、南戸は平和主義者じゃない。当然の帰結ともいえる。
『ツムギはどうしてそのひとのことを知ろうとしないんスか?』
白々雪のセリフが、頭に響いていた。
俺はあいつの言うとおり、南戸を知ろうとしていたのか?
自問して、首を振る。
知ろうとするだけ無駄だとあきらめていた。
南戸の言葉には重みがない。説得力はあるけど暖かみがない。強いけど堅固じゃない。
姿があやふや。
蜃気楼みたいなやつだ。
「なあ歌音……おまえはよく知らないやつがどんな人間か、そいつの言葉を聞かなくてもわかるか?」
「わかるわけないじゃん」
そりゃそうだろうな。
言葉すら信じられないのに、そのほかの要素で判断しろなんて無謀なことだ。
「えっとね、そうじゃなくて」
歌音はそんな俺のうなずきに、渋い顔をする。
「よく知らないひとなら、どんな人間かなんてどうやってもわからないんじゃないかな。話す言葉がすべて真実だとしても」
「それでもわからないのか?」
「たったひとつの視点からしかそのひとのこと知らないんだから、もしわかってもそのひとのたった一面だけでしょ? 全部にはほど遠いよ」
月の裏側を見たこともないのに月を全部知ることはできないでしょ、と歌音は付け加える。
「それもそうだが、それでも知りたいんだよ俺は」
「そんなときは、行動こそ人格だよ兄ちゃん」
聞き覚えがあるなんてものじゃない。征士郎との駆け引きに借りたばかりだ。
だが勝手にレンタルした俺よりも、もっとずっと深く、その言葉を知っていたのは歌音だった。
「たとえば信号が青で横断歩道には自分しかいなくて、自分が渡るのを車は待ってるの。歩行者優先だから当然なんだけどね、でもそんなときに走って渡るひとと、ケータイいじりながら渡るひとは違うんだよ」
「……青なのに車のためにわざわざ走って渡るやつなんていねえだろ」
「いるんだよ。そんな小さな……ほんの小さな気遣いができる子だっているの。もちろんその子が常にそうだとは言わないけど、そんなことがあたりまえにできる子が、歌音の友達にいるんだよ」
「そうか。その子はきっと優しいんだろうな」
「普段は口も悪いし気も強いから、気づかないひとも多いけどね」
ツンデレってやつなのかな。それは。
そんな陳腐な言葉では表現できないのかもしれない。
「人格ってそういうことだよ。もちろん状況によって行動は変わるのと同じで、人格だっていろんな顔がある。だから兄ちゃんは、知りたいひとがいるならそのひとの行動を思い出すといいよ。そこにはきっと、その人の人格が現れてるから」
南戸の行動、か。
それほど南戸の日常を知ってるわけじゃないけど、まったく知らないってわけでもない。
梔子屋敷に居座り、部屋を散らかし、小間使いのように梔子を使役して、料理も掃除もしないでぐーたらしてるだけの詐欺師。
……やべえ、ろくなやつじゃねえな。
思い出すとダメ人間さが一層際立ってしまった。
だがそれでも、俺は知っている。
梔子のために俺を騙して嵌めた。
呪いを受けてなお、自分の痛みについては何も言わなかった。
梔子が感情を取り戻すたびに、歓びの声をあげた。
俺を助けるために家までやってきた。
歌音の保護者として一切の手抜きをしなかった。
俺に貸しばかりつくってやがった。
何度も何度も俺を騙そうとした。
最後のたった一度以外、梔子を傷つけようとしなかった。守っていた。
「……じゃあ、どうして今なんだ?」
納得できない。
南戸はわかってたはずだ。俺の言葉にああいうふうに答えれば、こうなることくらい想定できただろう。
悲しませるためだとしても、もっと色々手段はあったはずだ。
なぜ今なんだ。
南戸は狡猾で周到なやつだってことくらいしかわからない。
そんなやつが突発的に、梔子との関係を崩すことを考えるだろうか。
……もし。
もし、これが計画だとしたら。
南戸の思惑通りなのだとしたら。
「……俺はなにを見落としてる?」
「兄ちゃんは鈍感だからね。見落としてばっかりだよね」
「うるせえ」
「歌音のことだってそうだもんね」
「うるせえってば」
「獏がいなかったら、いまごろこうやって兄ちゃんに説教できる歌音だって失ってたんだからね。運良くてよかったね」
「だからうるせ――」
と、俺はハッとする。
いままで疑問に思わなかった。
それは俺の鈍感さゆえだろうか。そうに違いない。
俺は歌音の肩をがしっと掴む。
「歌音!」
「えっなになになに!? 押し倒すの!? いきなり外でなんて恥ずかしいけど興奮しちゃうっ!」
「おまえ、獏とどうやって巡り合った?」
夢を喰う妖怪。
そんなものと往々にして関わるなんてありえない。
神だとか妖精だとかに慣れてしまってて、俺は考えてなかった。
夢見がちな妹を、偶然獏が助けてくれるなんてことありえるのか?
そんな確率ふつうじゃ――
「もらったんだよ」
歌音はきょとんとした顔だった。
言ってなかったっけ? とでも言わんばかりに。
「病室で目が覚めて、左手が動かないって知ってひとりで泣いてるときにね……いきなり現れたキツネのひとに」
「キツネのひと?」
「うん。『巡り合った縁に、ささやかなプレゼント』だって、使うか使わないかは夢のなかで決めろって」
「ちょっとまて」
混乱してきた。
獏をプレゼントするなんて、そんなことが容易にできる人間がいるとは考えつかない。
そんなことふつうじゃない。
「それ……どんなやつだった」
「ん~どんなひとなんだろ。顔はわからなかったからなぁ。……あ、でも祭りの帰りだったのかな。キツネのお面してたし、甚平服だったから」
「なっ――」
息がつまった。
「変なひとだったけど、いつか会ったらお礼いわなきゃね……あ、流れ星! ねえ兄ちゃん見た!? いま流れ星あったよ!」
空を眺めてはしゃぐ歌音。
俺はそれどころじゃなかった。
思考がまとまらない。
つまり、それは、なんだ。
南戸でまず間違いないだろう。
「征士郎だけじゃなかったのか……?」
だとすれば、わけがわからなくなる。
歌音に獏を差し出して助けてくれたのが南戸なのだとしたら、なんで俺に言わないんだ? あのときの南戸は、まるで獏なんて素知らぬ風に振舞っていた。ほんの少しの助言だけで深く関わろうとしなかった。
そんな状況で俺が気づくわけもない。
つまり歌音の未来を、夢を、命を守ってくれたってことだ。
なにも知らないフリをして守ってくれていた。
大きな前提が覆されたような衝撃だった。
「……あいつ、まさか」
弾けるように、俺は動いた。
あっけにとられた歌音を残して自分の部屋に戻る。
着替える時間も惜しい。
俺は急いで支度を整えて、家を出た。
行先はいわずもがな。
梔子屋敷だ。




