7話 現実等比
平穏だけがあればいいと思っていた。
緩んだ糸がピンと張らないように、いろんなものから距離をとって生きてきた。
誰かの何かにならないように歩いてきた。
ぬるま湯のような居心地の良さは、なかなか抜け出せない。自分の味方だけで周りを固めて過ごすのは夢心地だ。
平凡を愛して生きてきた。
手段でしかなかった平和好きが、いつのまにか目的にすり替わっていたことに気付いたときはもう、手遅れだったんだろう。歌音のためにと思ってやってきたことが、いつのまにか歌音のためではなくなっていたんだ。
そのときから、俺たちの天秤は、とっくに瓦解していた。
口 口 口 口 口 口
「……それじゃあいくッスよ」
白々雪の真剣な声が、病室に響いた。
「おい正気か白々雪。さすがにそれは理に適ってないんじゃないのか? たしかに縁起物にその文字は含まれるだろうし実際夢のなかでは三番目の茄子は有効だったしそりゃあ少しは意味があるとは思うんだ。だけどな、さすがにそれは無理やりじゃないか。しかも粉末にするなんて余計に酷くなると思うんだが」
「見苦しいッスよツムギ。男は度胸」
白々雪が持っているのは、一枚の皿だ。
赤いモノがたっぷりと乗った皿だった。
「そう言うならおまえも愛嬌をつけてからにしてくれよ」
「なに言ってんスかウチは愛嬌の塊みたいなもんじゃないッスか。いつもぷりぷりあなたの隣のプリティーしらゆきちゃんッスよ」
「自称のキャッチコピーほど痛いものはないよな」
「つべこべいわずに食えッス。男は度胸、女は愛嬌、ヤクザは任侠、大人は卑怯!」
「なんの話――もがっ!」
口のなかに、皿の中身を突っ込まれる。
「っ!? うごおおおおおおおっ!?」
「ほら暴れない暴れないッスよ男でしょ。ちょっと辛いくらいで暴れてどうするッスか? そんなんじゃ誰も救えないッスよ。『呑みこみ』が大事なのはスポーツだけじゃないッスからね。ほらほら、獏もひまなら手伝うッス」
「はーい」
「~~~~~~~~っ!」
身体を抑えられ、涙目になる俺の口のなかにぶちこまれるのは鷹の爪――唐辛子を細かく切ったものだ。
皿いっぱいに盛られたそれを放り込まれて、暴れないわけがない。
辛いってか痛い。痛いってか熱い。
首から冷や汗が噴出し口の中がヒートアップしていく。
白々雪いわく、歌音と手を繋いだままこれを食べることにより、俺と歌音の夢を繋ぐことができるらしい。夢から出てこない歌音と対話するためには、この方法が残された手段らしいんだが――
「ブガ~~~~!」
「ほーらほーらあとすこしッスよ~」
まるで赤子をあやすかのように優しい声を出す白々雪。気味が悪い。
でもそんなこと気にしてるほどの余裕は俺にはないんだ。涙目で堪えてるけど、油断したら吐きそうなんだよ。すっげえ辛い。
辛くて辛い。辛くて辛い。
ルビが振られてなければどっちでも読めるけど、んなことどうでもいいし辛い。
「ツムギ、ちゃんと呑みこむッスよ。歌音ちゃんが帰ってこれなくてもいいんスか? そんな『薄情な兄』じゃないッスよね? ……あ、濁点の位置変えたら『爆笑な兄』ッスね!」
どうでもいいわ。
「いやいや濁点のポジショニングは大事ッスよ。気をつけないと『開国の期限』が『介護苦の危険』になるんスよ? 『三国志マニア』が『残酷死マニア』になるんスよ? 『抱きたい』が『滝台』になるんスよ? 『大変残念だまったく!』が『大便三年溜まった……くっ!』になるんスよ? 『電子ノート欲しい』が『天使のウド星井』になるんスよ? ……ウド星井って誰スか?」
知らねえよっ!
口のなかが燃えるように痛くて動かせない。ツッコミたいけどつっこめない辛さ。
あ、いまのは『つらさ』な。
ていうかなんでそんな悪意のある変換なんだよ。
……口のなかを流すものがないのか。このままじゃヤバい。
「み、みふ……みふほふへ」
「水は持ってないッスよ。急いでるなら……ナースコール押しますか?」
「ほふはっ! ほへはへひはふは!」
「この状況でナースの迷惑を考えるとは、さすがツムギッスね。心がエーゲ海」
「ふふふ、ほうへほはひっへ」
「そうッスね。そうでもないッスよね言いすぎましたすみません」
うっせえよ否定する流れだろいまの。
……てかなんで伝わるんだこれで。
白々雪ってもしかするとテレパシー使えるんじゃないだろうな。
ちょっと白々雪のエロい姿を考えてみよう。
そう、たとえば、裸エプロンとか。
「ウチ、裸エプロンはいつもしてるッスよ?」
「はひへっ!?」
つい立ち上がる。
白々雪姫超能力者疑惑より、そっちのほうが重要だ。
「という冗談はともかく、そろそろ出番ッスよ獏」
白々雪はなんともないように獏の歌音に声をかけた。
寝ている歌音と繋いだ俺の手を、獏の歌音がうえからそっと握ってくる。その手から暖かいなにかが流れてくるような気がして、俺は瞼がすこしずつ重くなっていくのを感じた。
口のなかの痛みよりも睡魔が勝るなんて、どうかしてる。
このまま歌音の夢と、俺の夢を繋げてくれるらしいが……はたしてうまくいくのか。
不安になりつつ薄れていく視界のなかで、ふと白々雪の声が聞こえた。
「で、この唐辛子、食べさせると効果あるんスか?」
「え? べつになくても大丈夫だよ」
……このやろう。
起きたら絶対シバいてやると固く誓って、俺の意識は、沈んでいった。
口 口 口 口 口 口
俺は自分で見た夢すら、あまり覚えていない性質だ。
ぼんやりと脳裏の隅に残る夢の記憶では、いつも現実とそう変わらない夢を見ていたはずだ。学校だったり家だったり、とくに代わり映えのしない風景の夢を見る。目が覚めたらその記憶は置き去りにしてくるから中身までは把握してない。もしかしたら正義の超人になってるかもしれないし、あるいは悪魔になっているのかもしれない。
夢はすべて藪の中。暴くことはできないし、しようとも思わない。
だから〝他人の夢のなかに入る〟と言われたって、漠然とした想像しかできなかった。真っ暗な闇のなかにいるか、見慣れた家のなかにいるか……そんな風景に入り込むものだとばかり思っていた。
「……夢、だよな?」
気がついても、さっきまでいた病院だった。
すぐそばのベッドには歌音が寝ている。すやすやと寝息を立てて気持ちよさそうだ。
窓の外には街並みが続いている。よく見知った街と、はるかむこうには遊園地がある。見知った風景が続くその風景は、現実となんら変わりない。
「でも現実じゃ、ないよな?」
それを否定するのは、俺と歌音以外誰もいないことだ。白々雪も獏もいない。駐車場には車が一台もなく、閑散とした静寂の街が眼下に広がっている。遠くの山の木々は一本一本がかすかに違う色をしているし、信号機はちゃんと色が変わっていく。夢の世界では、おそらく考えられないほどのディティールの作り込みだった。
まあ歌音がこれほど細やかな街を作り出せることには簡単に納得できる。
夢は、想像の産物だ。
「……おい歌音」
俺はとりあえず、すやすや眠っている歌音に声をかけてみた。
可愛らしい寝息を立てて、ぐっすりと寝ているように見える。天使のように純朴な寝顔は一眼レフカメラを買ってきてすぐさま写真におさめておきたいところだが――
「むにゃむにゃ」
「起きろ。どうせ狸寝入りだろ」
「アデッ!」
見舞い品は持ってなかったので、チョップをお見舞いしてやった。
歌音は額をおさえて飛び起きた。
「いきなりなにするの兄ちゃん!」
「いまどきむにゃむにゃって寝言があるかよ」
「そうだよ起きてたよでも狸だとしても愛する妹が無防備に寝てるんだよ! せっかく寝たフリして待ってたのに、どーしてキスくらいしてくれないかなあ? 気が使えないね兄ちゃんって!」
「んなことに使える気はもってねえよ」
「ってことでやり直しを要求します! 兄ちゃんは誰もいないことを確認してから、そっと歌音の唇にやさしく――」
「それさっき聞いた」
「えっ!? じゃあもうキスは終わって――」
「ねえよ。そんなにしたけりゃ……これでくらいはしてやるが」
「うにゃあっ!?」
デコにキスしてやった。
「だだだだからいきなりは卑怯だよ兄ちゃんっ!? 歌音のファンがここにいたら悪即斬だよ四面楚歌だよ背水の陣すら布けずになぶり殺しだよ!」
赤面して額を抑える歌音。妹ながら可愛いやつめ。
この閉鎖された夢の世界に歌音のファンがいるわけないけどな。
「そういう問題じゃないの。まったくもって兄ちゃんは鈍感だね」
「俺は敏感な男だ」
「それもなんかイヤだよ」
どっちも否定された。
ならどうすればいいんだ。むしろ、どっちもか……?
「鈍感で敏感だなんて、多感なお年頃なんだね兄ちゃん」
「たぶんそれ意味違う」
「よしよし兄ちゃんの感度は良好、と」
「それは他のひとに言っちゃいけませんよ絶対」
「それってフリ?」
「……知ってるか歌音。『それってフリ?』は嫌いなワードランキングの上位常連なんだぞ」
「ツンデレだねわかります」
「それも常連だ」
「か~ら~の~?」
「それもだ。あんまり言ってると怒るぞ」
「ゴホンゴホン、通信障害が発生しました。兄ちゃんの感度はいまひとつのようです!」
慌てて敬礼する歌音。
ずいぶん歌音にとって都合のいい感度をしてるようだな俺って。
俺はためいきをついて、近くにあった椅子を引き寄せる。ベッドの横に座ると歌音のほうがすこし視線が高くなる。
「兄ちゃんってさ、下から見上げるとふつうだけど、上から見るとカッコイイよね」
「そんな魔法はかかってないはずだが」
「うっそだあ!」
「だってまだ三十歳なってないからな!」
「そうだね! じゃあ魔法にかかってるのは歌音だね!」
「……うまいこと言うな」
「でしょ? えへへ」
照れたように笑う歌音。
はにかむその表情にはなんの邪気もない。
しかし、だ。
「……おまえ、母さんに否定されたこと、そう簡単に冗談にできるよな」
兄が好きな妹。
それを歌音は隠そうとしない。
「歌音は正直者だからね! それにこの夢のなかの世界では歌音が神様なんだよ。想像したものが創造される歌音のための世界……ここでは、歌音なんでもできるんだよ」
「だから引き籠ったのか? 現実から逃げて、獏に未来を食べさせて、夢のなかに逃げ込んだのか? 自分がなんでもできる世界を作るために」
「そうだよ」
歌音はなにひとつ悪びれることなくうなずいた。
その声に迷いはない。
「もちろんそれだけじゃないけどね」
「……どれだけ心配かけてるのかわかってんのか? 母さんなんてずっとつきっきりで看病してるんだぞ」
「わかってるよ。獏が見た風景は、歌音にも伝わってるから」
それならどうして。
いくら自分の夢が叶わないと知ったからって、自分のなかに籠ってばかりいるような性格じゃないはずだった。すくなくとも俺はそう思っていたし、この表情を見る限りは間違ってないだろう。
だけど歌音は、それをわかっていてここにいるようで。
「おまえは、なんで――」
「兄ちゃんがいるからだよ」
歌音はまっすぐ俺を見た。
「兄ちゃんはいつも優しいよね。バカなことも言うし、歌音に意地悪することだってあるけど、歌音が嫌なことはしたことないもん。むかしから歌音のそばにいてくれるし、だからこそ好きになったの。……でも兄ちゃんがいるから、歌音はこの気持ちといままで向き合えなかったんだよ。このまえママに言われたの、本当は、本当はわかってるんだよ。現実と向き合わなきゃならないってことくらいわかってる。この気持ちがたとえ恋だとしても、そうじゃなかったとしても……兄ちゃんは歌音の兄ちゃんなんだから、この気持ちが叶いっこないってことくらい、理解してるんだよ」
それをわかってるんなら、夢のなかから出てくればいいだけのはず――
「でも、苦しいの……苦しいんだよ兄ちゃん。歌音さ、兄ちゃんに彼女ができたって聞いてすごく苦しかった。胸のなかがズキズキして痛かった。兄ちゃんだって高校生なんだもんね。また新しい彼女もできるだろうし、いつか結婚するんでしょ。歌音、あの痛みをこれから味わって生きてかないといけないのはイヤなの。痛いのだけは……歌音、ほんとにイヤなの」
「それは……」
俺は口を開きかけて、噤む。
それは誰もが感じる痛みだ。恋愛にしろ、友情にしろ、物欲にしろ……なにかが変化するときには必ずどこかが痛むものだ。それを受け入れることで俺たちは成長していくのだろう。俺は歌音がいうように鈍感だから、それほど感じることはない。流されるように、なるべく変化を緩慢にするようにして生きてきた。だから平気だった。
だけどその傷に耐えられない者も、もちろんいる。
それが歌音だったってことを……俺ははじめて知った。
……俺のせいなのか。
平和主義者であろうとしたことの弊害か。変化を封じ込めていたことへの軋轢か。
歌音を守るつもりで始めたこの選択が、歌音を苦しめることになっているとは知らずに、俺はここまで来てしまったのか。
「兄ちゃんさえよければ、ふたりでこの世界で住もうよ。ふたりっきりで、誰にも邪魔されずにさ。そしたらなんでもしてあげるよ。歌音、兄ちゃんの望むことならなんでもしてあげるし、なんでも生みだせるんだよ。ここは夢のなか……歌音はこの世界の神様なんだから」
そんなことばを平然と吐ける歌音を見ていられなくて、顔をそむけた。
俺のせいか。
俺のせいで、歌音はここまで痛みに弱くなってしまったのだろうか。
「なんで兄ちゃんが泣きそうな顔してるの?」
「……歌音……すまない」
「謝らないでよ。兄ちゃんはなにも悪くないよ。なにも悪くないんだよ。だから顔をあげてよ兄ちゃん。ふたりで一緒に、ここで暮らしていこう? ここは平和だよ。兄ちゃんが大好きな平和な世界だよ。夢っていうのはね、争いも間違いも罪もなにもない、完結した世界なんだよ。誰も傷つけることのない、幸せな世界なんだよ」
「…………。」
「ここにいれば、兄ちゃんだって苦しい思いをしなくて済むんだよ」
……ああ。それもひとつの選択肢かもしれない。
もともと俺は、逃げるのが悪いことだとは思っていない。立ち向かうことができればそれに越したことはない。でも、苦痛に耐えられない者だっているんだ。
そういうときは逃げるしかない。苦難を乗り越えられないときは、回避するしかないのだ。
現実の俺たちを獏に捧げさえすれば、獏と俺たちは立場を入れ替えることができるだろう。このまえ澪が妖精に憑かれたときのようなものだ。俺たちが現実から夢のなかに逃げたって、獏がなんとかしてくれるだろう。
歌音をこうしてしまったのは、まぎれもなく俺の責任だ。
なら歌音の望むままにしてやるのも、俺の本分かもしれない。
「ねえ兄ちゃん、いっしょに居よう?」
苦しみのない世界にいれば、誰も傷つかない。
その甘言は身に染みる。
まるで蜜が脳を溶かすように、トロトロと入ってくる。
空疎な世界に身を遷せば後戻りはできないと知りつつも、その誘惑には魅力を感じざるを得ない。
「歌音と一緒に、ここで暮らそう?」
でも、俺は、その夢物語にうなずくことはできない。
「すまん歌音。それはできない」
「……どうして?」
首をかしげる歌音。
そんなこと、言うまでもなかった。
「おまえに夢があったように、俺にも夢があるからだ」
「……兄ちゃんに? 停滞主義者の兄ちゃんに、夢?」
「ああ」
それはささやかな――そして大きな夢だ。
それがある限りは、獏に魂を売るわけにはいかない。
歌音を見捨てるわけにはいかない。
「だから歌音、俺はおまえの申し出は拒否させてもらう。ちょっとは心揺らいじまったけどな」
「……そう。交渉決裂だね」
「だな」
残念そうに息をついた歌音。
すぅ、と、俺は自分の体が透けていくのを感じた。
ここは歌音の世界だ。
歌音の望み通りにならないものは、拒絶されるのだろう。
薄れゆく俺の体を、歌音は名残惜しそうにぎゅっと掴む。
「また気が変わったら来てよ。兄ちゃんなら、歌音いつでも何度でも大歓迎だよ。夢破れて山河ありとはいかないけど……歌音のこの気持ちは、たぶんゆっくりしか変わらないから」
「わかった。でもつぎはちゃんと連れて帰るからな。その考えが中二病まがいの胡蝶の夢だってこと、教えてやる」
「それはこっちの台詞だよ。つぎこそは虜にしてあげるよ」
「ふん……妹に籠絡されてたまるかよ」
それこそ夢想ってやつだ。
つぎの瞬間、俺の意識はぷつりと途絶えた。




