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頼むからあの娘のべしゃりを止めてくれ!  作者: 裏山おもて
4巻 いもうとからの、ユメバナシ

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3話 親娘喧嘩


「――どういうことか、説明しなさい」



 ハッとして振り向く歌音。

 その手を、ガシリと掴んだ母。その目はすこしの動揺と、多大な怒りで満ちていた。仕事の帰りだろう……深く帽子をかぶり、色の濃いサングラスをかけていた。


「……今の話は、本当?」


 俺と歌音は、答えられない。答えられるわけがない。

 じっと口をつぐんだのを見て、母は矛先を俺たちふたりではなく、歌音ひとりに向けた。


「歌音。あんた、お兄ちゃんが好きだって、いま言ったわね?」

「……う……あ……」


 さっきまでの勢いは消えていた。

 歌音は母が苦手だ。それも心の底から怖がっている。どんな状況でも睨まれたら震えるように、育ってしまった。


「それがどういう意味か、あんたわかって言ってんの? お兄ちゃんが好き? 自分がなにを口走ったのか、わかって言ってんの?」


 歯をカタカタを震わせる歌音。


「誰かを好きになるのは結構。兄妹の仲がいいのは結構。血が繋がっている相手を、一番に大切にするのはとても素晴らしいことよ。でも……言っていいことと悪いことくらい、わかるわよね?」

「そ、それは……」

「冗談にしては笑えないわね。それともなに? その気持ちが自分の本心だって言うの? まさか、そんなバカなことは言わないわよね? 正直に言ってみなさい、ほら、はやく」 


 鬼の形相の母に、歌音は縮こまるばかり。

 またなにも言えなくなる……と思ったとき、歌音は、震えながらもうなずいた。


「――だ、よ……」

「……なんだって?」

 

 母が睨みを強めた。

 歌音は怯えながらも、唇をかみしめて言った。


「――本気、だよ」

「このバカ娘!」


 バシン!

 と響いた。

 歌音の頬をぶった母は、その両手をがっしりと捕まえて顔を近づけた。

 いまにもブチ切れそうな剣幕で、叫ぶ。


「なにが本気よ! ふざけんのもいい加減にしなさい!」

「ふ、ふざけてないもんっ」

「じゃあ甘えんのもいい加減にしなさい!」

「あ、甘えてなんかないもん!」


 歌音は言い返す。

 涙眼になっていたが、俺は歌音が母に歯向かっているのを初めて見た。


「ふざけてたらこんなこと言わない! 歌音だって、歌音だってたくさん悩んだもん! でも嘘つけないんだもん! 自分の気持ちに、嘘だけはつけないんだもん!」

「それが甘えだっていうのよ!」


 バシンッ!

 母はまた歌音の頬をぶった。

 こんどは強烈なビンタだった。ちいさな歌音の体がぐらりと揺らめいて、地面に倒れる。


「甘えてんのよ! 大人になりなさい歌音! ちゃんと現実と向き合いなさい! あんたもう中学生でしょ!? それくらい、自分で考えなさいよ!」

「向き合ってるもん! だからちゃんと好きって言わなきゃって思ったんだもん!」

「向き合ってたら、そんなことするはずないでしょ! まずそんなこと考えるはずない!」

「あるもん!」


 歌音は立ちあがった。


「だって、兄ちゃんが大好きだもん! 歌音、兄ちゃんのことが好きなんだもん!」

「それはただの甘え! あんたが紡に甘えてるだけなのよ! そんなこともわからないの!? ちゃんと考えなさい歌音!」

「考えてるもん! 歌音、ちゃんと考えてるもん!」

「考えてないのよ! 考えてたらねえ、そんなこと……そんな、バカなこと言うはずがないのよ! それに、まずは恋ってものを学んでから言いなさい! ちゃんと知ってから、言いなさい!」

「そ、それならっ!」


 涙をにじませながら、母を睨みつけた。


「なら、ママが教えてくれればよかったんだ!」

「…………なんですって?」

「ちゃんと教えてくれたらよかったんだよ! この好きって気持ちが恋じゃないって、教えてくれればよかったんだよ! 歌音の気持ちなんて知らないくせに、なんでそんなこと言うの!? ずっと歌音のことなんか放ってたくせに! 兄ちゃんにぜんぶ押しつけてたくせに! ずっとずっと、仕事ばっかりで帰ってこなかったくせに! 叩いて、怒って……どうせ歌音のことなんか大事じゃないんだ!」

「……そ、それは、あんたたちのためで……」


 母は、胸にナイフを突き立てられたような表情をした。

 たしかに俺と歌音のことは、ほとんど面倒を見なかった。それは仕事が忙しかったのもあるだろうし、俺が歌音の面倒をちゃんと見れていたから、というのもあるだろう。それでも毎日の仕事の合間に、ちゃんと様子を見に帰ってきていたことは知っている。夜も遅くに帰ってきて、歌音や俺の寝顔を確認して、朝早くに仕事に出かけていたことも知っている。母は決して俺たちのことを大事にしてなかったわけじゃない。

 だが、そんなことは歌音には関係がなかった。

 娘を放置していた母……歌音の目には、そう映っていたのだから。


 だから、歌音のその言葉は、寂寥に満ちていた。

 長年で積み重なった心の裡が、想いとなって言葉となって漏れだした。


「大事じゃないくせに、放っておいたくせに……いまさら、いまさら母親面なんかしないでよ! ママなんか、ママなんか――」

「よせ、歌音!」 



「――ママなんか、ママじゃない!」



 言い切った。

 叫びは、空へと突き抜ける。


 歌音は振り向いて、走りだした。どこかへと逃げていくかのように走りだした。


「歌音!」


 俺は歌音のあとを追う。

 母はその場を動かなかった。

 隣を通るとき、顔を蒼白にして震えているのが見えた。「そんなつもりじゃ」と小さくつぶやいた言葉が、耳に入ってきた。


 どんなつもりじゃなかったのか、俺にはわからない。


 ただ、歌音がなにを求めていたのか……すこしだけ、俺はわかった気がした。


「歌音!」


 歌音は足がはやい。

 全力で駆けたら、俺もなかなか追いつかない。見失わないように気をつけているが、歌音はどんどん家から遠く離れていく。


 親子喧嘩。

 たぶん、初めてだった。俺は母の手ひとつで育てられたので、母の苦労はわかっている。俺は何度も歌音と喧嘩したことはあったけど、歌音は母に怯えて自己主張したことはなかった。

 だから、歌音の感情は、とても不安定になったのだろう。


 周りが見えないくらいに揺らいだのだろう。


 ……赤信号が、見えないくらい。


「――歌音ッ!!!」


 スローモーションのように見えた。


 道路に飛び出した歌音に迫る、大きなトラック。

 ブレーキの音が街中に響くかのように鳴る。

 そこで歌音はようやく、自分がどこにいるのか気がついた。ハッと顔をあげて、すぐ目の前まで迫ったトラックに身を硬直させ、助けを求めるように振り向いて――


 ドンッ


 思ったよりも、軽い音だった。


 そして歌音の体も、玩具のように飛ばされた。

 くるくると回りながら、紙切れのように飛んだ歌音の体。

 アスファルトに落ちて、跳ねて、蜃気楼の影に揺れる。


 俺が駆けよったとき、そこには赤い色だけが、灰色の風景に浮かんでいるように見えた。

 錯覚か、それとも誇張か、あるいは現実かはわからない。


 小さな歌音の体を抱えると、やけに重たかった。

 止血に使った俺のシャツが、みるみる赤く染まっていく。止まらない赤。背筋は冷え切っていた。


 あとはなんとなくしか、覚えてない。


 夢のなかにいるようなぼんやりとした心地で、俺はその風景を眺めていた。脳が現実じゃないと拒否しているように、救急車が来て病院について、そしてそのあとのことも、すべてぼんやりとしか記憶に残らなかった。


 まるで絵画を眺めているような、そんな感覚でしか、その後の記憶は残っていない。







 




 




 歌音の葬儀が行われたのは、父がアメリカから帰国してからだった。

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