3話 親娘喧嘩
「――どういうことか、説明しなさい」
ハッとして振り向く歌音。
その手を、ガシリと掴んだ母。その目はすこしの動揺と、多大な怒りで満ちていた。仕事の帰りだろう……深く帽子をかぶり、色の濃いサングラスをかけていた。
「……今の話は、本当?」
俺と歌音は、答えられない。答えられるわけがない。
じっと口をつぐんだのを見て、母は矛先を俺たちふたりではなく、歌音ひとりに向けた。
「歌音。あんた、お兄ちゃんが好きだって、いま言ったわね?」
「……う……あ……」
さっきまでの勢いは消えていた。
歌音は母が苦手だ。それも心の底から怖がっている。どんな状況でも睨まれたら震えるように、育ってしまった。
「それがどういう意味か、あんたわかって言ってんの? お兄ちゃんが好き? 自分がなにを口走ったのか、わかって言ってんの?」
歯をカタカタを震わせる歌音。
「誰かを好きになるのは結構。兄妹の仲がいいのは結構。血が繋がっている相手を、一番に大切にするのはとても素晴らしいことよ。でも……言っていいことと悪いことくらい、わかるわよね?」
「そ、それは……」
「冗談にしては笑えないわね。それともなに? その気持ちが自分の本心だって言うの? まさか、そんなバカなことは言わないわよね? 正直に言ってみなさい、ほら、はやく」
鬼の形相の母に、歌音は縮こまるばかり。
またなにも言えなくなる……と思ったとき、歌音は、震えながらもうなずいた。
「――だ、よ……」
「……なんだって?」
母が睨みを強めた。
歌音は怯えながらも、唇をかみしめて言った。
「――本気、だよ」
「このバカ娘!」
バシン!
と響いた。
歌音の頬をぶった母は、その両手をがっしりと捕まえて顔を近づけた。
いまにもブチ切れそうな剣幕で、叫ぶ。
「なにが本気よ! ふざけんのもいい加減にしなさい!」
「ふ、ふざけてないもんっ」
「じゃあ甘えんのもいい加減にしなさい!」
「あ、甘えてなんかないもん!」
歌音は言い返す。
涙眼になっていたが、俺は歌音が母に歯向かっているのを初めて見た。
「ふざけてたらこんなこと言わない! 歌音だって、歌音だってたくさん悩んだもん! でも嘘つけないんだもん! 自分の気持ちに、嘘だけはつけないんだもん!」
「それが甘えだっていうのよ!」
バシンッ!
母はまた歌音の頬をぶった。
こんどは強烈なビンタだった。ちいさな歌音の体がぐらりと揺らめいて、地面に倒れる。
「甘えてんのよ! 大人になりなさい歌音! ちゃんと現実と向き合いなさい! あんたもう中学生でしょ!? それくらい、自分で考えなさいよ!」
「向き合ってるもん! だからちゃんと好きって言わなきゃって思ったんだもん!」
「向き合ってたら、そんなことするはずないでしょ! まずそんなこと考えるはずない!」
「あるもん!」
歌音は立ちあがった。
「だって、兄ちゃんが大好きだもん! 歌音、兄ちゃんのことが好きなんだもん!」
「それはただの甘え! あんたが紡に甘えてるだけなのよ! そんなこともわからないの!? ちゃんと考えなさい歌音!」
「考えてるもん! 歌音、ちゃんと考えてるもん!」
「考えてないのよ! 考えてたらねえ、そんなこと……そんな、バカなこと言うはずがないのよ! それに、まずは恋ってものを学んでから言いなさい! ちゃんと知ってから、言いなさい!」
「そ、それならっ!」
涙をにじませながら、母を睨みつけた。
「なら、ママが教えてくれればよかったんだ!」
「…………なんですって?」
「ちゃんと教えてくれたらよかったんだよ! この好きって気持ちが恋じゃないって、教えてくれればよかったんだよ! 歌音の気持ちなんて知らないくせに、なんでそんなこと言うの!? ずっと歌音のことなんか放ってたくせに! 兄ちゃんにぜんぶ押しつけてたくせに! ずっとずっと、仕事ばっかりで帰ってこなかったくせに! 叩いて、怒って……どうせ歌音のことなんか大事じゃないんだ!」
「……そ、それは、あんたたちのためで……」
母は、胸にナイフを突き立てられたような表情をした。
たしかに俺と歌音のことは、ほとんど面倒を見なかった。それは仕事が忙しかったのもあるだろうし、俺が歌音の面倒をちゃんと見れていたから、というのもあるだろう。それでも毎日の仕事の合間に、ちゃんと様子を見に帰ってきていたことは知っている。夜も遅くに帰ってきて、歌音や俺の寝顔を確認して、朝早くに仕事に出かけていたことも知っている。母は決して俺たちのことを大事にしてなかったわけじゃない。
だが、そんなことは歌音には関係がなかった。
娘を放置していた母……歌音の目には、そう映っていたのだから。
だから、歌音のその言葉は、寂寥に満ちていた。
長年で積み重なった心の裡が、想いとなって言葉となって漏れだした。
「大事じゃないくせに、放っておいたくせに……いまさら、いまさら母親面なんかしないでよ! ママなんか、ママなんか――」
「よせ、歌音!」
「――ママなんか、ママじゃない!」
言い切った。
叫びは、空へと突き抜ける。
歌音は振り向いて、走りだした。どこかへと逃げていくかのように走りだした。
「歌音!」
俺は歌音のあとを追う。
母はその場を動かなかった。
隣を通るとき、顔を蒼白にして震えているのが見えた。「そんなつもりじゃ」と小さくつぶやいた言葉が、耳に入ってきた。
どんなつもりじゃなかったのか、俺にはわからない。
ただ、歌音がなにを求めていたのか……すこしだけ、俺はわかった気がした。
「歌音!」
歌音は足がはやい。
全力で駆けたら、俺もなかなか追いつかない。見失わないように気をつけているが、歌音はどんどん家から遠く離れていく。
親子喧嘩。
たぶん、初めてだった。俺は母の手ひとつで育てられたので、母の苦労はわかっている。俺は何度も歌音と喧嘩したことはあったけど、歌音は母に怯えて自己主張したことはなかった。
だから、歌音の感情は、とても不安定になったのだろう。
周りが見えないくらいに揺らいだのだろう。
……赤信号が、見えないくらい。
「――歌音ッ!!!」
スローモーションのように見えた。
道路に飛び出した歌音に迫る、大きなトラック。
ブレーキの音が街中に響くかのように鳴る。
そこで歌音はようやく、自分がどこにいるのか気がついた。ハッと顔をあげて、すぐ目の前まで迫ったトラックに身を硬直させ、助けを求めるように振り向いて――
ドンッ
思ったよりも、軽い音だった。
そして歌音の体も、玩具のように飛ばされた。
くるくると回りながら、紙切れのように飛んだ歌音の体。
アスファルトに落ちて、跳ねて、蜃気楼の影に揺れる。
俺が駆けよったとき、そこには赤い色だけが、灰色の風景に浮かんでいるように見えた。
錯覚か、それとも誇張か、あるいは現実かはわからない。
小さな歌音の体を抱えると、やけに重たかった。
止血に使った俺のシャツが、みるみる赤く染まっていく。止まらない赤。背筋は冷え切っていた。
あとはなんとなくしか、覚えてない。
夢のなかにいるようなぼんやりとした心地で、俺はその風景を眺めていた。脳が現実じゃないと拒否しているように、救急車が来て病院について、そしてそのあとのことも、すべてぼんやりとしか記憶に残らなかった。
まるで絵画を眺めているような、そんな感覚でしか、その後の記憶は残っていない。
歌音の葬儀が行われたのは、父がアメリカから帰国してからだった。




