プロローグ
夢を見ることは、誰にでもある。
しかし、夢に魅せられたひとは、あまりいないだろう。
なりたい将来の夢と、寝るときに見る夢。このふたつが同じ字で同じ言葉である本当の理由は、誰にもわからない。夢と夢……似て非なるふたつの夢は、どちらも俺たちに魅力的に映る。どちらの夢が先に夢と呼ばれるようになったのかは、言語学者に聞けばいい。ただ、どちらが先かなんてことは些事でしかないのだ。本当に大切なのは、どちらも俺たちの見据える先にあるものだということ。
だから、ただひとつ言えることは、そのどちらからも裏切られたとき。
ふたつの夢に、裏切られたとき。
人は、夢を見失ってしまい――
「ねえ兄ちゃん……一緒に、ここでずっと暮らそうよ。平和で悠久な時を過ごそうよ。それが兄ちゃんの望んでいた幸せでしょ? だったら、歌音もそれでいいよ。どうせもう、歌音の未来はないんだから。歌音の将来なんてないんだから」
「…………歌音」
――夢に、魅せられてしまうのだ。
口 口 口 口 口 口 口
もう何度目かになるが、察しのとおり、物語を始める前にこれだけは言っておかねばなるまい。
俺――久栗ツムギは主人公にならない。
語り部以外に天職なんてものはない。日本昔話の「むかーし昔」と語るナレーターのように、話が始まればいつのまにか背景へと成りかわっている。登場人物の手が届かないかゆいところを、たまに掻いてやるだけの孫の手のような便利グッズでしかない。
この話の中心は、言葉に溢れた俺の人生のなかで、最も言葉を交わした人物だ。
俺が五歳のときにこの世に生れてから、いままでずっと俺にくっついてきた最愛の家族。
妹――久栗歌音。
とはいえ、俺は歌音のことを充分に理解していたわけじゃない。そのつもりだったけれど、そうじゃないと気付かされた。俺は歌音の支持者であっても、理解者ではなかったのだ。
今回の顛末は、それを証明するための――つまり俺が妹離れするための、物語。
どうしようもなくブラコンで、どうしようもなく変態で、どうしようもなく阿呆な妹。
どうしようもなくシスコンで、どうしようもなく変態で、どうしようもなく馬鹿な兄。
そんな俺たちが前に進み――そして出発点に戻った、そんな話。
夜明けに見る夢のように、幻のごとく儚く消えていった物語だ。
歌音には、妄想癖があった。
現実逃避でも、ストレス発散でもない。
たんに妄想するのが何よりも好きで、妄想で世界を変えようとするほどに妄想偏者だった。中毒といっても過言ではないくらい、歌音の妄想癖は度を過ぎていた。歩きながら妄想し、勉強しながら妄想し、食べながら妄想し、寝ながら妄想する。いくつものストーリーラインが歌音の脳の中でできあがっていたのはいうまでもないだろう。ときには日常の妄想線上、ときには突飛な世界の妄想線上、ときには刺激的でエロティックな妄想線上に、歌音はいつも身を置いていた。
声に出して妄想を語るのは、いつものこと。
俺はそれを気に留めなかったし、「おまえは想像力豊かだな」という具合に、微笑ましくもあった。それが俺に対する過度な愛着だとしても、母親に対する極度な恐怖だとしても、父親に対する高度な敬意だとしても、そんなものは些事だった。夢見る少女じゃいられないのは、そのうち自分で理解する――そう思って、妄想癖に対してはとくに気を配ってこなかった。
その結果がどうなったかといえば、肩すかしのように言うが、どうにもならなかった。
正しいか間違っているかはわからない。歌音は歌音として育ち、妄想癖は妄想癖として彼女の人格を作り上げた。その類まれなる想像力は、歌音に理知的な一面を与えた半面、どうしようもなく幼い人格を残すことになった。
歌音が小学四年のときのことだ。
体育の時間に、クラスの女子の笛が盗まれるという事件があったらしい。好きな女子を狙った男子の仕業という、至極まっとうで平凡な事件だったのだが、クラス内で犯人探しが始まっても一向に犯人が見つかる気配がなかった。騒ぎが拡大し学年中に広がってしまい収集がつかなくなったとき、歌音がぽつりと言った。
「五年生と六年生のクラスの時間割、見せて」
犯人は上級生だったことは、先生でも思いつかなかったらしい。体育の時間、その男子のクラスは工作の時間で、自習だったという。歌音は自分の好きな相手ができたとき、同学年であるという以外の可能性を思い浮かべて、それを言葉にした。学年で縛られている学校の教師たちからすれば、その発想はなかなかでてこなかったようだ。
六年生の教室を探して、事件は解決した。
だが、そこはたいして重要じゃなかった。
歌音はその日家に帰ってくると、いきさつをすべて俺に話した。俺はそのとき「よくやったな」と言うと同時に「なんでそういう発想ができたんだ?」と聞いたのだ。
すると歌音は、笑って言った。
「はやく犯人見つけないと、兄ちゃんに誉めて貰うチャンスなのに、逃しちゃうもん!」
歌音の発想は、家に帰ったあとの想像から始まっていたのだ。順を追ってその結果を妄想するのではなく、逆順に思考を巡らせる。それこそが歌音の突飛な妄想のひとつの要素だった。
その原動力は、いうまでもなく俺だった。
中学一年にもなって「兄ちゃんと結婚する」と真顔で言うほどの、変態な妹。さすがに俺もそろそろ将来が心配になってきたが、歌音がそこまでブラコンなのにはちゃんとした理由がある。もちろん俺がとびきり魅力的だとか、そういうことじゃない。理由もなく妹に好かれるなんて非現実、神に呪われるよりも天地転覆。
それは単純な理由だった。
……両親が、家にいないから。
ああ、そうだ。
こうやって家族のことを語るのだから、俺のことも語らなければならないだろう。
俺がここまで平和主義者を謳うようになった理由も、歌音のブラコンと直結するのだ。
もともと両親は歌手だった。音楽業界で出会い、そして結婚。それとほぼ同時に俺を生んで、母は一時期、引退も考えていたらしい。父は日本に定住していなかったのでほとんど日本には帰ってこない。子育てもひとりでやらなければならないけれど、両親ともども売れっ子の歌手だったからお金に困りはしなかった。
最悪、誰かに育ててもらうことだって選べた。
だが、母はそんな気質じゃない。
自分なりに筋を通そうとする人間だった。
かつて暴走族の総長を務めていたこともあり、〝鬼の歌姫〟と呼ばれていた歌謡界きっての武闘派だった彼女は、俺をひとりで育て上げ、新しく生んだ歌音ですらも六歳まで面倒を見た。
そんな母に育てられた俺は、かなり心の成長は早かったと思う。幼い妹の面倒もみることができたし、家事だって小学一年の頃にはひととおりできた。
母が妹の世話を「頼んだぞお兄ちゃん」と俺に任せたのは、俺と妹――ふたりの成長を促すためだったのかもしれない。
もちろん、母が歌手として再起したかったのは否めないだろう。歌音が保育園に通うようになると、ほとんど歌音の世話は俺がすることになった。母は夜遅くに帰ってくるのがふつうで、ときには帰ってこない日もあった。歌音が寂しい思いをしているのはわかっていたはずなんだけど、仕事に火がつけば止まらない人でもあったのだ。俺と歌音は、ずっとふたりで育ってきたようなものだった。
「……兄ちゃん、大好き」
歌音が小学二年になったころだったと思う。
俺は中学に進学し、通学路が変わった。
それまで一緒に登下校していたが、歌音はひとりで学校に通うようになった。母親や父親には甘えられないぶん、俺に甘えようとしたのだろう。小学校が終われば中学校の門の前で待っているようになったのは、仕方がなかった。
そんな環境だったから、俺も歌音を大切にしていた。
シスコンだってのは、言うまでもなく自覚している。
誰よりも、なによりも大切に育ててきた妹だ。大切に大切に、細心の注意を払って気をまわして、何事もなく過ごそうとし続けてきた結果、俺は、なにかが起こることを拒むようになっていた。
平和主義。
これが俺の平凡のスタートだった。白々雪の家庭を壊し、梔子を助け、澪に出会ったときにはもう、俺の停滞思考は歌音ためではなくなっていたけど、俺の最初は、やっぱり歌音だったのだ。
ただ、俺の心境の変化をよく思わないひともいた。
母――久栗舞華だ。
成長こそが子どもの義務だ――そう言って、中学に入ってまるっきりふぬけた俺を叩きなおそうとしたことも、何度かあった。格闘術を教えたり、スパルタ塾に通わせてみたり、ときには知らない土地に置き去りにされたりした。俺がちょっとやそっとじゃ動揺しないのは、母のそれがあったおかげだろう。
無論、俺の心根は変わらなかった。
歌音はそんな母のことがむかしから怖かったらしい。普段は奔放で明るい歌音だが、母の前では借りてきた猫になる。母は歌音のことを〝おとなしいお兄ちゃんっ子〟だと、ずっと勘違いしてきたほどだ。
……いや、その勘違いは、いまも続いている。
俺はそれでもいいと思ってきた。
それでもいい。母は仕事で忙しい。愛情深いはずのひとってことは、直に育てられた俺がよくわかっている。愛ゆえに厳しく、愛ゆえに放任する母。
だが、それは歌音には伝わっていない。
歌音のブラコンは、その環境が生み出した、偏った愛情だ。
愛情には理由がある。
なんてそんな偉そうなことは言えないが、だからこそ俺は決意しなければならない。
理由があって愛されているなら、俺はその愛に応えなければならない。
俺が歌音を愛する理由はひとつだ。
大切な妹だから。
生まれたときから変えることのできない、俺の原動力。
シスコンだと罵られても構わない。
だが、俺は歌音のためにできる限りのことをする。
夢を失った歌音に、ふたたび夢を与えてやれるのは、俺の役目だろうから。
歌音の物語に再び明かりを灯すのは、兄である俺の役目だろうから。
「……だから、死ぬなよ。歌音」
俺は、眠り続ける妹の髪を、優しく撫でた。
これは、歌音に見せる夢の続き。
妹から向けられた夢物語。
タイトルをつけるとするなら、これだろう。
〝いもうとたちの、夢語り〟




