1話 箱庭入娘
この日常、勝てないものが多すぎる。
勝ちと負けのどちらに価値があるかというと、それはもちろん勝ちだろう。
負けたほうが価値を得ることができるのは、負けるが勝ちという状況に陥った時だけだ。そんなものは少数派で、しかも精神論に起因するだろう。もちろん負けが無価値だとは口が裂けても言えないが、少なくとも負けは勝ちではない。負けに価値がないのは音の通りだが、ただし勝ちに価値があるとも、言いきれない。
日常は、勝ち負けじゃ量れない。
だからといって負けていいかは、また別問題だ。
少なくとも勝ちにこだわる必要がある状況だってあるし、負ければ悔しいのは人間として正常な反応だ。勝てないものが多すぎる場合、あきらめてしまうとそこですべてが終わってしまうだろう。進化も、進歩も、なにもかも。
それでも勝てない場合はどうするか。
スポーツの試合じゃないんだ。勝ち負けで決まる日常なんて、少年漫画くらいなもんだろう。
「……勝てなくても、負けなければいい」
なにをしても俺が勝てない相手――それはいま、目の前にいる人物だ。
「あんたたち、全員フヌけてんじゃない?」
猛烈な日光が照りつける浜辺。
波の音が耳に心地よい。さっきまでパラソルを広げて涼んでいたその場所で、俺は――俺たちは正座していた。
白々雪も、澪も、歌音も、俺も……梔子も。
そんな俺たちを叱りつけるのは、いかにも夏といった軽装の母。
久栗舞華。
しわもたるみも一切なく、若づくりを極めたような化粧は息子の俺から見てもさすがとしかいいようがない。高校生の息子を持つ母親だなんて、世間は認めたくないに違いない。
ただその額に浮かぶのは、いまにも切れそうな太い血管。
怒りの象徴。
「誰の許可を得てこんなことをしてるのかしらね? 答えなさい、白々雪ちゃん」
「は、はいッス!」
いつもの飄々とした態度はどこへやら、白々雪桜子は背筋をピンと飛ばした。顔がひきつっている。
「う、ウチは両親がいないので、ええと、いいかなって――」
「あんたにしては早計な判断ね……白々雪ちゃん?」
「ひっ」
顔を近づけられて、サングラスの向こう側からギロリと睨まれた白々雪。その瞳孔が半分開きかけてる視線に、つい悲鳴をあげてしまうのはしょうがない。
「未成年同士が外泊するとなれば、まず相手の親に確認するのが礼儀じゃないかしら? たとえ場所が相手の家だったとしても、たとえ顔見知りだったとしても。白々雪ちゃん、私が義に反したことはなにより嫌いだと知っていたはずよね? そのデカイ乳、削り落してやりましょうか?」
「ごごごごめんなさい!」
白々雪の土下座。
なかなか見れない貴重な映像だ。いくら記憶力がよくて泰然としていても、さすがに鬼には勝てないらしい。
「それから……そこのあんた」
「はい」
母が次に見据えたのは銀髪少女。
明らかに日本人ではないその風貌にも、躊躇うことなく日本語で話しかけた。
澪は静かにうなずいた。
「あんた、名前は?」
「はい。わたしは澪=ウィトゲンシュタインと申します。今年の春に転校してきました。オーストリアから留学しています。ご子息のツムギさんとはクラスメイトで、同じ図書委員として常日頃からご鞭撻をうけたまわり、まことにお世話になっております」
「ああ、そういうのはいいの」
母は、丁寧な澪のあいさつをうざったそうに払った。
義に反したことは嫌いな母は、なにより建前が嫌いなのだ。かたっ苦しい挨拶なんてむしろ悪印象にしかならない。
「その挨拶を、どうして出発する前に私にできなかったのかって聞いてるのよ? 礼儀正しい自信があるのならなおさらでしょ? それにあんた、自分の両親にはここに来ることは伝えてあるのかしら? 何日も外泊するということを伝えてんの?」
「……いいえ」
「それもできないなら、馬鹿丁寧に頭なんて下げるんじゃないわよ」
「っ……、はい。すみませんでした」
澪も顔をこわばらせて、ぺこりと頭を下げた。
ニコニコ顔は手放して、泣きそうな顔をしていた。事前に調べていた情報をはるかに上回った――そんな顔をしていた。
「それから……ああ、あんたはいいわ、梔子詞さん。あんたは保護者の方から事前に連絡を頂いているものね。もっとも、元カノがどうという話は……あとでたっぷり聞かせてもらうけれど」
「え」
意外な言葉に声を上げたのは……歌音だった。
梔子が――というか南戸が手をまわしていたのは聞くまでもない。南戸は俺の母親のことも知ってるだろうし、どう立ちまわれば梔子のためになるのか常に考え尽くしているやつだ。意外だったが、予想外ではない。梔子もコクリとうなずいた。
ただ、俺を凝視してくるのは歌音。
『元カノってなに!?』とその目が語っている。
どう説明したものか……面倒だが。
歌音に返事をする前に、しかし母が歌音に向き合った。
「……歌音」
びくり。
歌音はいつもの快活な表情を一片も見せず、母の呼びかけにうつむいて震えた。
その額には汗が浮かんでいる。目は泳ぎ、唇は震えていた。母の前ではまるで怯えたウサギのようになってしまう。
それが俺の妹――久栗歌音だった。
「……あなたは、ほんとうにいつまでも気弱ね。べつに怒りはしないわよ。この件に関しては、歌音の責任なんてひとつもないのだから。むしろ私に報告してくれたことで感謝すらしてるわ。えらいわね、歌音」
母は歌音の頭を撫でた。
それは微笑ましい娘への愛撫……の、はずだった。
だが歌音は少しも嬉しそうな顔をせず、ただ震えを堪えているだけ。
そのことにすこしがっかりした表情を浮かべながら、母はようやく俺を見つめた。
「……やあ、母さん」
「なにがやあ、なのかしら?」
やべえ。めっちゃ怒ってる。
「紡。あんたが一番責任を感じなければならない場面なんじゃないかしら? 異性の友達をこれだけ引き連れて外泊? バケーション? なに調子に乗ってんのよ? あんた自分がなにをしてるのかわかってんの? 一歩間違えば大惨事になるような環境に身を置いているのよ? ふざけてんの?」
「なあ母さん、ちょっと口調が素になってるぞ」
「うっさいわよ。水着の女の子こんなに並べてなにが楽しいの? ハーレム気取って有頂天になってんじゃない? しかもひとりは元カノってどういうことなのかしら? そもそも彼女ができたなんて報告聞いてないんだけどどういうことなの!?」
「ちょっ、落ちつけ母さん」
拳をパキパキと鳴らしながら、顔を近づけてくる母を、俺はどうどうと手で制する。
怖いが……まあ、俺にとっては馴れたものだ。そもそもこのひとに女手ひとつで育てられたんだ。いまさら怯えたりはしない。
「まず言っておくけどな、安心しろ。間違いなんて起こんねえよ」
「戯言ね。ありえないわ」
「なんだよ。俺は真面目が服を着て歩いてるような男だぞ?」
「冗談が服を着て歩いてる、の間違いでしょ」
「真面目な俺が着てる服が冗談を着てるだけだ」
「冗談が真面目を着てるだけでしょ。服はむしろ……着てないわよ」
「全裸か。せめて服くらいくれ」
「全裸が冗談を着て歩いてるのよ」
「真面目なんていらねえから服をくれ!」
さすがにそれなら服を選ぶ。
ってあれ? なんの話だったっけ?
「……それで紡……どの子が本命なの? 返答によっては滅さ……なんでもない」
「ほんと、なんの話だっけな母さん」
もっと真面目な話をしていた気がするんだが。
とにかく俺がいくら説得しようにも、むしろ火に油を注ぐ結果になりそうだったので、俺は大人しく謝った。
母はそれくらいじゃ気がおさまらない――というか、もとよりそのつもりだったのだろう。俺たちはその日は遊ぶことを禁止されて、部屋に閉じ込められまたもや説教を受けるハメになった。
せっかくの夏休みなのに、海で泳がず部屋でじっとしてるなんて…………悪くない。
むしろラッキーだ。
そう言ったら白々雪と歌音に殺されそうなので、もちろん黙っておいたが。
「兄ちゃん! ひどいと思わない!?」
夕食を終え、各自の部屋に軟禁された俺たち。
昨日まではひとりでひと部屋使っていた俺だが、歌音と梔子の部屋に、母が乗り込んだらしい。ベッドはふたつなので、自然とひとり追い出されるかたちになる。梔子と話がしたいと真剣に話していた母から逃げてきたらしい歌音は、パジャマ姿のままベッドの上で頬をふくらませた。
「まったくもってひどいんだよ! せっかくの夏なのにじっとしてるなんてまっぴらごめんだよね! せっかくのバカンスなんだよ! 」
「そうか? まあしかたないと思うけどな」
「なにがしかたないの!? 夏のアバンチュールだよ! 歌音の解放感はどこ!?」
「少なくともここじゃない。だから脱ぐな」
「サマーバケーションなのに! 真なる歌音を解放するときはいつ!?」
「少なくともいまじゃない。だから脱ぐな」
「これが脱がずにいらいでか!」
なおも脱ごうとする歌音の頭をシバいておいた。
歌音はぷりぷり怒りながらベッドの上で跳ねていた。
クーラーが効いた部屋で本が読み放題。
こんなふうに、もっとポジティブに考えればいいのに。
夜の八時以降は、白々雪たちが俺の部屋に来るのは禁止されていた。おしゃべりたちに邪魔されることなくゆったりと睡眠がとれる……いや、それは歌音がいるから無理か。
まあとにかく、俺には万々歳な状況だ。そう目くじらをたてるもんでもない。
「……反抗期始めようかなぁ。これじゃあ歌音、いつまでたっても箱入り娘だよ」
「そりゃ随分とデカイ箱だな」
「箱庭入り娘だよ」
「神に選ばれちゃったよ」
「箱庭煎り娘だよ」
「一気に香ばしくなったな」
「箱庭煎りイカ娘だよ」
「うまそうだがギリギリアウトかもしれない」
「えー」
ブーブーと文句を言う歌音。
だが、いまの状況も悪いことばかりでもあるまい。
「いいことだってあるじゃねえか」
「たとえば?」
「母さんの料理が食べれた」
「ぶっちゃけコトバお姉ちゃんのほうが美味しいよね」
「そりゃあ母さん基本料理なんてしねえからな。でも、味じゃないプライスレスな部分もあるだろ?」
「プライスレスでお腹壊してれば世話ないよ。しかも一番食べ慣れてる兄ちゃんが」
「お金で買えない価値があるんだよ」
「買えるものは薬だね」
「そのとおり。……でも、プライスレスさっさと消化しねえかな。腹痛え」
「いいことぜんぜんないじゃんか」
「まったくだ」
論破された。
いや、されたつもりはないけどな。
すると歌音はぽんと手を叩いて、
「あ、いいことひとつだけあった」
「……一応聞く。言ってみろ」
「この部屋で寝れる」
「……一応聞く。なぜだ?」
「むふふふ。歌音、ようやく兄ちゃんの夜伽が――」
「できない。だから脱ぐな」
顔を掴むと、歌音は唇を尖らせてまたパジャマを着る。
「そうだね。ツムギ兄ちゃんの体調が万全のときじゃないと……ね?」
「愛おしそうにお腹を撫でるなプライスレスが出るじゃねえか」
「歌音、それくらいべつに――」
「おまえの思考回路こそプライスレスだな。ブレーキレスともいう」
貴重とかいう問題じゃないような気もしてくるが。
まあ、とにかくだ。
「あんまり文句ばっか言ってると、ブーブークッションになるぞ」
「それはヤだな。おならしてると勘違いされちゃうよ」
「逆転の発想だ歌音。おならしても気づかれない」
「豚だと勘違いされちゃうよ」
「逆転の発想だ歌音。豚になっても気づかれない」
「不正解ばっかのバカだと思われちゃう」
「逆転の発想だ歌音。不正解が目立たなくなる」
「なるほどわかったよ……たいして利点にならないってことが」
そりゃそうだろう。ブーブークッションなんてその程度だ。
歌音はそのあともひとしきり文句を言い続け、ベッドの上でバタバタと暴れた。
とくに内容のある文句じゃなくなってきたから俺が無視していると、いつのまにか歌音はうとうととしはじめた。
すでに十時を回っていた。いつもの歌音は寝る時間だ。
「ほら。寝るなら自分のベッドにもどれ」
「……ん」
と返事しつつも、歌音は俺のベッドの上から動く気配がない。
しかたない。
俺は歌音の体を抱えて、隣のベッドに運ぶ。
思ったより重たくなっていた。そういえば歌音の体を持ったのなんていつ以来だろう。知らない間にけっこう成長していたようだ。胸は……寂しいけど。
にしても成長……か。
「……そうだ、歌音」
「ん……なに……にいちゃん……」
目をこすって丸まった歌音に、俺は訊いた。
「おまえ、まだ母さんが怖いのか?」
歌音はすこしだけぴくりと耳を動かして、半分開いた目で俺を眺めた。
その表情から、真意を読み取ることはできない。
けど、なにが言いたいのかはわかる。
「……にいちゃん」
「なんだ?」
「……おなじ部屋で寝るの、ひさしぶりだね……」
そう言って歌音は寝息を立て始めた。
いつのまにか、俺の手を、不安そうに握っていた。
「……そうだな。おやすみ」
俺はゆっくりと手を離してから、歌音にそっとタオルケットをかけてやった。




