4話 有為転変は世の習い
『入れ替え妖精』
南戸がすらすらと述べた言葉の中心にでてきたのは、そんな単語だった。
『自然界の妖精が、わざわざ人間と同化するおもな理由がこれだろう。もともとは中世ヨーロッパでよく聞く迷信だった。日本でいう〝なまはげ〟がこれに近い。子どもを怖がらせて規律を守らせる教育説法だな。妖精といえば現代でこそ煌びやかなイメージだが、当時は〝化け物〟という意を持っていたから効果は抜群だった。……だが、どんな虚言や妄言でも、数が集まればそれは言霊となり、力をもった言霊は現実となる。実際に妖精が人間の子どもとすり替わった例が実在したのは中世を過ぎてからだ。
そういった歴史的背景を持つ〝入れ替え妖精〟だが、その手段は実に巧妙だ。いきなりではなく、心と体を徐々に変異させ、最後には完全に入れ替わる。つまり時間が経てば経つほど、澪=ウィトゲンシュタインは妖精となり、彼女の中にひそむ妖精は人間となっていく』
「それってやばくないか?」
『無論だ。悪魔や悪霊が人間を乗っ取る手段とよく似ているんだぜ。外見と内面の両方で、人間としての存在を希薄にする。最終的には体と心を完全にすり替えられ、妖精は彼女に、彼女は我々の目に見えない存在――〝妖精〟として自然界に放り投げだされるわけだ。そうなれば、彼女はすぐに消滅してしまうだろう。無人島でのサバイバルとはわけが違う。だからそうなる前に、キミは彼女の変化を突き止めなければならない。意外な大仕事だぞ。やれるか?』
「……そりゃあ、まあ、友達だしな。見捨てるわけにもいかんだろ」
『殊勝な回答だな、頑張りたまえ。おおよそ期間は七日間。ちょうどキミらがそこに滞在する期間だ。そのあいだに妖精の尻尾を掴み、正体を暴き、入れ替えを防ぐんだ』
「七日間の根拠は?」
『妖精の起源は、神格を奪われた神だ。もっとも力を持つと信じられている創造神が人間に与えた時間の単位を忘れたか? 妖精のこびとが群れる人数を知らないのか? 妖精の基準はすべからく七という単位。つまり、そういうことだぜ』
「……そういうもんか」
『そういうもんだ。だからまず、いまの彼女の状態をいの一番に知らなきゃならねえ。手段は……そうだな……デートでもしてみりゃいいんじゃねえか?』
そう言った南戸の言葉どおり、俺は澪をデートに誘ったわけで。
夕食のカレーを食べた後、各々自由に過ごしているなか、俺はこっそりと家を抜けて海岸に足を運んだ。
別荘の丘から坂を下りると、プライベートビーチがある。べつにうちの敷地内じゃないが、そう広くもない砂浜に誰か来るわけもなく、むかしからここはうちのプライベートビーチとして使えていたのだ。
浜に打ち上げられた大木に腰かけていると、後ろから足音が聞こえて振り返る。
「お待たせ、ツムギくん」
「ようやくきたか……ってうお」
まぶしくて目をそむけた。
半透明の羽が、輝いていた。
「ちょ、おま、それどうにかならんのか」
「あ、ごめんね。これ、なんだか光ったり濁ったりするみたいなの。デートだからかな? わくわくしてるからかも」
「犬の尻尾みたいだな」
「妖精の尻尾じゃなかったの?」
「どっちももののたとえだよ」
「ふうん」
澪は自分の背中に生えた羽を不思議そうに眺めた。すこしだけ光が弱くなる。
そういえば、こいつ最初からそうそう取り乱してないな。度胸があるのか、それとも鈍いだけなのかはわからないが。
「それで、どんなデートにしてくれるの?」
「そんなにデートデート言うな。調子が狂う」
「いいじゃない。ツムギくん、ようやくわたしに目を向けてくれたんだもの。すこしくらい楽しませてもらったって罰はないよね?」
とニコニコ笑いながら、腕をからませてくる澪。
銀色の髪がさらりと流れる。シャンプーの香りがした。
俺は澪を連れて、海岸に沿って歩く。
波の音が心地よく、踏みしめる砂はやわらかい。
夏の月が水面に反射して、澪の髪と同じ色を浮かび上がらせていた。
砂浜を抜け、岩場を歩く。ぬめる岩に注意しながら歩いていくと、切り立った崖にぶつかった。崖の下のほうには小さく穴があいている。
正確には穴ではなく――洞窟なのだが。
入口は少し狭い。
腰をかがめて中に入る。
「ツムギくん……ここ、なあに? 真っ暗でなにも見えないんだけど」
「祠だよ。水の精霊を奉る祠」
俺は懐中電灯を取り出して、点ける。
暗闇の洞窟はひんやりとしていて、生き物の気配はない。
澪がぎゅっと力を込めてきた。
「なんか、肌がぴりぴりするね……」
「神聖な場所らしいからな。……じゃあ歩くぞ」
「え? 奥まで行くの?」
「まあな。もしかして怖いのか? ちなみに白々雪はこういうの得意らしいけど……やめるか?」
「はやく行くわよ!」
わかりやすいやつだ。
白々雪の名前を出したとたん、いきなり勇み立った澪。
羽が輝きを増した。まるで澪の感情を体現しているかのようだ。
洞窟はふたり並んで進むのがちょうどの細さだ。
密着してくるので足元に気をつけなければならないが、壁には苔が張り付いているので触りたくないからちょうどいい。
懐中電灯と澪の羽の輝きを頼りに、ゆっくりと進む。
「……これ、どこまで続いてるの?」
「かなり奥まで。だいたい五キロくらいだな。枝道もあるから迷ったら帰れないぞ」
「うそ!?」
「嘘だが」
「ばか!」
背中を叩かれた。
「すまん。まあ、せいぜい五十メートルくらいだ。一本道だしな」
「水の中に沈んだりしない? そろそろ満潮だけど」
「する。沈んだら溺れ死ぬから覚悟しとけ」
「うそ!?」
「嘘だ」
「ばかっ!」
ビンタされた。
「ツムギくんときどきサディスティックだよね!」
「ビンタしながら言うセリフじゃないな」
「だってそうじゃなきゃこんな暗くて狭いところに美少女を連れてきて怖がらせるなんてこと…………ハッ! これがウワサの吊り橋効果ね!?」
「なに悟ったような顔してんだ。違うからな」
「いいの、言わなくてもわかってるから」
「だから違うってんだろ」
「安心して、ツムギくんの心の声は聞こえたから」
「いい耳鼻科を紹介してやる」
と言い合いつつも澪は絡めた腕を離さなかった。
窮屈だが、腕をふりほどこうとは思わない。
恐怖はいつでも人間の理性を超えてくるから。
その感情は、とても大事なものだから。
「……あ、なにか見えたよ」
澪が前方に目を凝らす。
真っ暗な洞窟が、すこしずつ広くなっていく。
その先には光が生まれていた。
薄い青色に輝く、洞窟の壁。
そこに辿りついたとき、澪は息を漏らした。
「……わあ……きれい……」
水の精霊を奉る祠。
ここにきた理由は、単純に、澪のなかにいる妖精がここの精霊かもしれないと思ったからだが、それ以外にもある。
水晶壁。
祠のある空間には、天井がない。
地面の亀裂の底になっているこの場所は、ちょうどこの時間は月明かりが差し込むようになっている。銀色の光に照らされて、結晶化した壁が輝く。
半透明の結晶が、キラキラと輝いている。
「……だろ?」
「……うん」
澪は絡めていた腕を離して、水晶壁に触れた。
冷たかったのだろう。驚いて手をひっこめてから、もう一度触れる。
「きもちいい……すごいねツムギくん。こんな良い場所知ってるなんて」
「まあな。歌音でも両親でも知らない場所だ。俺の人生のなかで、いちばん秘密にしてる場所なんだよ」
「そっか……よかったの? わたしに教えても」
「まあな。おまえ、ずっとがんばってただろ?」
「わたしが?」
澪が水晶から顔を離して振り返る。
きょとんとした表情になっていた。
「ああ。ドイツの精霊から逃げるために、わざわざ留学してくるし、誰も知りあいがいない他国なのに、いつもみんなに気を使ってくれてるだろ? 図書委員にも入ってくれて精一杯働いてくれるし、仲のいい友達がひとりもできなかった白々雪とだって仲良くしてくれてる……俺、けっこうおまえには感謝してるんだぞ」
「ツムギくん……」
「誰からも感謝されなくても、それでもみんなに気を回す澪に、俺ができることなんてこれくらいしかないからな…………ま、つまり、そういうことだ」
気恥ずかしくなってしまった。
いかんいかん。俺らしくもない。
目を逸らす。
「ツムギくん……」
澪の背中が、いっそう輝きを増した。
水晶に負けないくらいに、光を放つ。
「嬉しいよ。わたし、すごく嬉しい。そんなふうにツムギくんが見てくれたなんて、知らなかったよ。ありがとう」
「そうか。そりゃあなによりだ」
「だから……あのね、ツムギくん」
澪が、一歩近づいてくる。
まぶしい。直視できない。
「おまえ……羽が……」
「あのねツムギくん、わたし、わたしね……」
また光が増す。
目を逸らしてすらまぶしい。
そんな光を背負った澪は、俺の腕に手を触れた。
「――っ!?」
熱い。
手が、やけに熱い。
だが澪はそんなこと気付いていないようで。
俺をじっと見つめたまま、薄い唇を開いて――
「わたしね……わたし、ツムギくんのことが――」
パンッ
と。
なにかが破裂するような音がして、まばゆかった光が一瞬で掻き消えた。
洞窟のなかに、薄青の光だけが戻る。
……なんの音だ?
薄く閉じていた目を開く。
「あれ?」
そんな声が聞こえてきたのは、下。
俺の足元。
さっきまで澪が居た位置には、澪はいなくて。
「あれ? ツムギくん……おっきくなっちゃった?」
「…………は?」
こびとがいた。
銀色の髪をなびかせて、半透明の四対の羽を揺らめかせ。
手のひらサイズのこびとが、俺を見上げていた。
「……なんじゃこりゃ」
こびとの妖精。
あっというまに有為転変。
現状維持なんて鼻で笑うかのようで。
澪の妖精化がさらに一段階進んだことを、俺はしばらく理解できないでいた。




