7話 ビブロフィア
「あ~づ~い~」
うだるような暑さ。
焼けつく外気。
溶けるアイス。
汗ばむ制服。
空調機の止まった図書室。
手をパタパタと振り、少しでも暑さを和らげようとするのは馬鹿のすることか、それともたゆまぬ努力か。手うちわで起こる風を受けた顔が涼むのと、手を動かすことにより消費するEが起こす燃焼、どちらが勝っているのかしばらく考えていたけど、それを考えるのもカロリーの無駄遣いだと気づいてどうでもよくなった。
「あ~づ~い~ッ~ス~よ~」
小さい『ツ』を伸ばす発音は、なかなか現実向けではない。
言葉を切るときに発生する言葉の残滓、それを引き延ばしたようなくもぐる音。この場合は『い』の語尾が跳ねたまま空中で固まり、鼻にかかったような低音になっている。しかしただの低音ではない。白々雪の吐きだす呼気の影響を受けて、微妙に音程が崩れているのだ。優秀な録音装置を用意すればその微妙な波長のズレが捉えられるだろう。
そんな言語上に存在しない言葉すらちゃんと発音してのける。
白々雪桜子だからこそ、それができるのだ!
……うん。とりあえず暑い。
「ゔ~~~~~すらいむになるッスよぉ~」
「ほんとだらしないわね、白々雪さんは。そんなに暑いならクーラーの効いた生徒指導室にでも行ってくればどう? そのまま指導教官に折檻されてくればいいよ」
「そういう澪ちゃんも、汗びっしょりじゃないッスか。ひとのこと言えないッスよ。澪ちゃんこそ職員室で教師共とニコニコ談笑していつもみたいな点数稼ぎしてきたらどうなんスか」
「そんなことしてないわよ。わたしはただ品行方正なだけだもん。生活態度に問題がある誰かさんと違って、点数なんて稼ぐ必要はないから」
「ああ間違った点数じゃなくて小金稼いでるんッスね。男性教師に『ねえ、わたしのこともっとちゃんと評価して……』って甘い言葉をかけてホテルに連れ込んで金でも受け取ってるスよね七方美人」
「暑さで脳までおかしくなったの白々雪さん、それは大変ね。あなたから頭脳を引いたら残るのは無駄に肉付きのいい体だけよね。それこそ小金稼ぎしないと生きていけないんじゃなくって? あ、そんなに暑いのもその両胸についた肉のせいなんじゃないの? その大きさ見たことあるよ。あ、なにかのゲームで狩人がハントした獣を削いで焼いてたやつだ」
「そう言われてみれば澪ちゃんの胸もどこかで見たことあるなあ。どこだったかなあ。あ、思い出したッスよ。たしか家の台所だ。白くて平面なところとか瓜二つじゃないッスか。もしかして澪ちゃんは行き別れた双子なんじゃないッスか。じゃあこんど運命の再開をさせてあげますね……まな板と」
「それはどうもご丁寧にありがとうございますパイナップルさん」
「そんな喜んでいただけて嬉しいッスよ小粒マスカットさん」
「…………アイスうめえ」
俺はそんなふたりの横で、カウンターに肘をつきながらアイスキャンディーを頬張る。
「ってちょっとツムギ、いつのまにアイスなんか食べてんスか!?」
「そうよツムギくん! 図書室は飲食禁止だよ!」
「だって冷凍庫にあったから」
おそらく図書館司書のおばちゃんの私物だろう。
夏休みまであと数日、すでに司書のおばちゃんは一学期の出勤を終えているらしい。夏休みもしばらく休みだから、このアイスはきっと食べていいということなのだ。
よくなくても食べるけど。
暑いから。
「ずるいッスよ。ウチもとってくるッス」
「あ、わたしも」
ふたりはそそくさと準備室の冷蔵庫の元へと走った。
そりゃアイスがあると知ればそんな反応をするだろう。なるべく動きたくない俺ですら同じことをするに違いない。
まあ、今回はその労力が無駄になることは知っているけど。
でもふたりに教えてたりはしない。
暑いから。口を開くと冷気が逃げる。
「ああっ! もう箱しか残ってないッス!」
「うそっ! なんでないの!?」
ドタバタと戻ってくる。
「ちょっとツムギ! 最後の一個だったんスか!? 黙って食べたんすか!?」
「ツムギくん、ひどい!」
やかましい。
これは図書委員で最も経験を積んだ大先輩である俺に食べる権利があると判断したんだ。
それに、ここには三人。アイスは一個。
これを目撃したおまえたちはなにがなんでも熾烈な争いを繰り広げて食べようとするだろう。図書室戦争の幕開けが目に見えていた。平和主義者で平穏論者の俺がそんな未来を選ぶと思うか? 否、選ぶはずもない。つまりこれは俺の理念にのっとった行動であり、決してひとりじめしようとして行った低俗な行為ではないのだ。だからおまえたちそんな飢えた獣のような目をして睨んでないで……あと十秒ほど待て!
「っちょっとなんて勢いで食べてるスか!? せめてひとくちくらいくださいよ!」
「わたしにもちょうだいツムギくん! あーんはいらないから! ちょっとだけでいいから!」
「ぱくぱくぱくぱく、ごっくん」
「「あ、ああっ……」」
アイスを嚥下すると、絶望の響きが世界に木霊する。
白々雪は膝を地面について涙を流し。
澪は床に手をついて打ちひしがれて。
いまにもふたりの呪詛が聞こえてきそうだ。甲子園出場を九回ツーアウトの場面から逃してしまった高校球児のような落ち込みっぷり。ううん、そこまで食べたかったとは。殺意さえ向けられるとはさすがに思わなかった。
こうなれば、手段はひとつ。
「……ごめんなちゃい☆」
「「謝る気ゼロかっ!」」
ダメか。滅多に見ることのできない俺の変顔を無視するとは本気のようだ。
まあ許してくれないならべつにそれでいい。
アイスなんて消えてなくなる夏の幻だから(物理)。
……ダメだ。モノローグにも暑さの影響がでている。
普段の俺ならもっとクールに語れているだろうに。
トボトボと椅子に座りなおす白々雪と澪。
さすがに口げんかする余裕もなくなったのか、ふたりはカウンターに顔を乗せて、
「……ツムギは鬼畜生物だったんスね」
「ひとは見かけによらないって、こういうときに使うんだね」
「いやよくよく見ると、容姿にも現れてるッスよ」
「ほんとだ。なんか凶悪な顔つきだね」
「牙とか生えてるし」
「髪の毛逆立ってるし」
「瞳孔ひらいてるし」
「チェーンソー持ってるし」
「返り血浴びてるし」
「高笑いしてるし」
「舌が二股にわかれてるし」
おいおい幻覚見てやがる。
誰か救急車を呼べ。
「『世界は俺のもんだ』って叫んでるし」
「『俺に女をよこせ~』って言ってるし」
「『悪い子はいねえがぁ』って探してるし」
「『WRYYYYYYY』て波紋ってるし」
「『スパアーーーーッツ』って涎たらしてるし」
「『セイセイセイセイ!』って腰振ってるし」
ついに幻聴まで。
薬でもやってんのかな。
いや、暑さで頭をやられたのか。
なるほどそれはしかたない。
しかしまあ、
「……ほんと、あっついな」
「「おまえが言うなっ!」」
どつかれた。
せっかくくつろいで座っていたのに椅子から落ちる。
というか狭いカウンター内に三人も座ってるのが暑い原因なのではないだろうか。
「なら誰か出ればいいじゃない」
「ウチは嫌ッスよ。めんどくさい」
「わたしも嫌よ。あっちは西日が当たるもん」
「俺も嫌だ。というか今日のカウンター当番は俺なんだからおまえらさっさと書架にいって返却された本を並べてこいよ」
「アイスくれたらやるわ」
「愛してくれたらやるッス」
「おい白々雪。言葉で遊ぶのはいいけど愛で遊ぶな」
そんなことをすると不幸な目に逢う。
たぶん。
「ぷっ……愛で遊ぶなだって」
「ちょっといまのはクサいよね」
「おい笑うなよ。体温が上がる」
おもに俺の。恥ずかしくて。
「ほんとツムギは昔っから、歯の浮いたようなことばかり言うッスよね」
「そんな記憶はねえよ」
「なになに、ツムギくんってキザだったの?」
「そうなんスよ。たまに見かける十円玉くらい」
「それはギザだ」
「わたし日本に来るときにもらったよ」
「それはビザだ」
「広告載せて配ってる」
「ビラだ」
「いつまでたっても昇進できない会社員?」
「ヒラだ」
「じゃあここは?」
「おっと騙されないぞ。そこはヒジだ!」
「シンデレラって十回言ってよ」
「嫌だ」
「四大悲劇の王さまは?」
「リアだ」
「実験する授業は?」
「理科だ」
「歯医者になるのに必要なのは?」
「歯科資格――ってか、」
まてまて。
さっきからおまえら、
「なんの遊びだ」
「「ツムギ遊び」」
「俺は遊ばれて喜ぶ変態じゃねえ」
せめて言葉遊びにとどめてくれ。
紡遊びは受け付けない。まあ、詞遊びのほうはもっと許さんが。
「……というかさ、おまえらも律義だよな」
「なにがッスか?」
「今日とか短縮授業だろ? 午後からはほとんど人がいないってのに、こんな図書室当番なんて俺に任せてよかったんだよ。むしろ任せてくれたほうがよかったんだよ。はっきりいえば任せろよ」
「ひとりになりたいって魂胆が丸見えッスね」
と白々雪が鼻で笑った。
「ツムギがどんな魂胆だろうが肝胆だろうが、そんな腹積もりは興味ないッスよ。ウチはただ自分の担当する仕事を消化してるだけッスから。ただの消化作業。それに楽しいし、ストレスのくすぶりを消す大事な日常ッス。つまりただの消火作業。それにこんな青春でもウチの心が成長していることがわかるッス。つまりは昇華作業ッス。それにウチは三度の飯より本を眺めていたいほどの本好きッスから、ぜんぜん苦痛じゃないッス!」
「そうね。わたしも、ツムギくんの行動を監視するためとか、全然、これっぽっちも考えてないよ。義務を果たすのは淑女の嗜みだし、白々雪さんがエロい体でツムギくんを誘惑するのが危険だなんて思ってるわけじゃないから。わたしも本好きな図書委員として、ちゃんと責任を果たしてるだけだから、とくに気にしなくていいよツムギくん」
「「…………。」」
「え、なに? わたしなんか変なこと言った?」
首をかしげる澪。
本音だだ漏れ澪。
狙ってやっていたら策士すぎる。
あり得ないこともないのが怖い。
……まあ、それはそうと。
「おまえたちが図書委員の仕事に熱心なのはよくわかった。そうか、そうだったのか」
俺は立ちあがり、ふたりに抱きつく。
「俺は嬉しい。いつのまにか真なる図書委員を目指す後輩が、俺の背中に追いついてきたこの喜びを表現できない。俺は嬉しい。とても嬉しい。ありがとう、ここまで図書委員として誇りに思ってくれるやつはいない。俺は嬉しいぞ。そんなにおまえたちが本を好きだったなんて、見直したぞ」
「そ、そうッスか?」
「な、ならわたしも嬉しい」
なぜか恥ずかしがるふたり。
暑っ苦しいときに抱擁なんて拒否られるとおもったが、どうやら歓迎ムード。
これは好機。いまこそ敵将を討ち取らん。
俺はぱっと身体を離して鞄をカウンターの下から取り出し、早口でまくしたてる。
「なら、俺は先輩として暖かくお前たちを見守ろうではないか。そうか、きちんと夕方まで残ってくれるのだな。なら俺は少し行くところがあるから先に帰るよ。そうか、おまえたちがそんなに図書愛に目覚めていたとは知らなかった。うん、俺は嬉しい。だから今日のところは任せるぞ白々雪、澪」
とふたりの肩をぽんぽんと叩くと、俺はさっと動いて図書室の扉をあける。
「え……ちょっとツムギ、どこ行こうとしてるんスか」
「予定があるんだ。そういうわけで、よろしく頼んだぜおまえたち」
「「ええっ?」」
去り際にウィンクする俺。
後ろ手で扉を閉める。いままで図書委員の仕事を投げ出したことのない俺だ。予測できなかった展開に、あっけにとられたふたりの視線を扉で閉め切る。
廊下は図書室より涼しかった。
うまく逃げることができた。
白々雪と澪が相手だ。考える時間を与えたら負けていた。
作戦勝ち。
「……ふぅ、さてと」
俺は足早に歩き出そうとして。
廊下の端に立っている少女に気付く。
「すまん、待たせたな。……じゃあいくか。南戸が腹をすかして待ってるだろ? せっかくだから、俺も昼飯ごちそうになってもいいか? あいつらのせいでまともに食べてないんだよ」
こくり、とうなずく梔子。
俺は梔子と並んで、彼女の家まで向かった。
鞄のなかには、一通の手紙が入っている。
表紙には達筆な文字。
『 久栗紡様 御中 』
ここからが、正念場だ。




