第42話 二人の時間
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朝というものは往々にして人間を怠惰にする。
とりわけ依頼のない朝ともなれば尚更であった。起きなければならぬ理由がない。誰に会う約束もない。ならばこの温もりの中にいつまでも沈んでいたいと思うのは人間として至極当然の欲求というものだろう。外面も内面も真面目腐っているシャールやセフィラとて例外ではない。
朝霧の鐘亭の一室。
窓から射し込む陽光が寝台の上に斜めの線を引いている。その光の帯を避けるようにしてシャールは仰向けに横たわっていたのだが、その胸の上には亜麻色の髪をした女が頭を乗せ、すっかり寛いでいた。セフィラである。
「動かないでくださいませ」
シャールが身じろぎしようとすると、セフィラは不満げに呟いた。
「枕が動くと困りますわ」
「私は枕ではないのだが」
「今は枕ですわ」
取り付く島もなかった。
セフィラの体重は存外に軽い。圧迫感というほどのものはなく、むしろ心地よい重みとして胸の上に乗っかっている。彼女の髪から漂う微かな香りが鼻腔をくすぐり、呼吸のたびに彼女の身体が僅かに上下するのが分かる。
こういう時間を幸福と呼ぶのだろうかとシャールは思った。
王宮にいた頃にはおよそ想像もつかなかった光景である。王太子として生きていた日々には休息という概念すらほとんど存在しなかった。朝は鍛錬、昼は講義、夕は社交、夜は書物。眠る時間すら惜しんで己を磨き続けていた。それが義務であり、それ以外の生き方など知らなかった。
けれども今、目の前にあるのは全く異なる現実だった。
逃亡者として国を出て、辺境の自治都市に流れ着き、冒険者として日銭を稼ぐ毎日。かつての栄華からすれば転落も甚だしいと言えるかもしれない。だが不思議と惨めな気持ちにはならなかった。むしろ肩の荷が下りたような、奇妙な解放感すらある。
「シャール」
セフィラが顔を上げた。翠色の瞳がすぐ近くでシャールを見つめている。
「何だ」
「今日は何をなさいますの」
「何も」
「何も?」
「依頼は休みだ。特にやることもない。君も休んだらどうだ? ここ最近は働き詰めだったからな」
「まあ」
セフィラは嬉しそうに目を細めた。
「それは素晴らしいことですわね。ええ、ではそう致しますわ。でも……そうなると、わたくし、今日一日シャールを独占してもよろしいのでしょうか」
「ああ……」
その言葉を待っていたかのように、セフィラはシャールの胸に顔を埋めた。まるで子猫が飼い主に甘えるような仕草である。公爵令嬢として培われた気品はどこへやら、今のセフィラはただの年頃の娘でしかなかった。
シャールはセフィラの髪を撫でながら、ふと天井を見上げた。
部屋の隅に蜘蛛の巣が張っているのが目に入る。壁際には昨日脱ぎ捨てた服が乱雑に放置されており、机の上には読みかけの本や羊皮紙が散乱していた。掃除をしなければならぬと思いながら、ここ数日は手をつけていなかった。
「汚いな」
思わず呟くと、セフィラが顔を上げた。
「何がですの」
「この部屋だ。掃除をしていない」
「あら」
セフィラは周囲を見回し、小さく肩をすくめた。
「そうですわね。少々散らかっておりますわ」
「少々どころではないだろう」
「わたくしは気になりませんけれど」
「私は気になる」
シャールは身を起こそうとしたが、セフィラがしがみついて離れない。
「駄目ですわ。まだ動かないでくださいませ」
「掃除をする」
「後でよろしいでしょう」
「今やる」
「シャール」
セフィラが頬を膨らませた。その表情がおかしくて、シャールは思わず小さく笑った。
「分かった。寝たままやる」
「寝たまま?」
怪訝そうな顔をするセフィラを尻目に、シャールは右手を軽く持ち上げた。
次の瞬間、部屋の空気がかすかに揺らいだ。
壁際に積まれていた衣服がふわりと浮き上がり、まるで見えない手に運ばれるように宙を滑って衣装箪笥の方へと移動していく。同時に机の上の羊皮紙が一枚一枚整頓され、本は背表紙を揃えて積み重ねられていった。床に落ちていた埃や塵芥が渦を巻くように集められ、部屋の隅に置かれた屑籠へと吸い込まれていく。
念動の力である。
シャールの異能は細やかな操作に長けていた。砂粒で剣の形を作り、水滴で文字を描くことさえできる精密さ。その技巧を以てすれば、部屋の掃除など児戯に等しい。意識を薄く広げ、視界に映るすべての塵を捉え、それらを同時に動かしていく。
天井の蜘蛛の巣が払われ、窓枠に積もった埃が掃き出されていく。寝台の下から転がり出てきた小銭が卓上の財布へと収まり、床板の隙間に入り込んでいた細かな塵が掻き出されて屑籠へ向かう。まるで目に見えぬ召使いが十人ほども働いているかのような光景だった。
「まあ」
セフィラは目を丸くして、部屋中で繰り広げられる無音の清掃を眺めていた。
「便利ですわね、シャール」
「まあな」
「わたくしにはこのような芸当はできませんわ」
シャールは指先を動かしながら言った。
「集めるくらいならできるだろう」
「いいえ」
セフィラは首を横に振った。
「できませんわ。少なくとも今は」
その言葉に、シャールの手が止まった。
「どういう意味だ」
「わたくしの力が……何と申しますか、以前より扱いにくくなっているのです」
セフィラは寝台の上で身を起こし、自分の両手を見つめた。
「ウェザリオ王国にいた頃よりも、力の容量が上がっているようなのです。それはおそらく良いことなのでしょうけれど……制御が難しくなっておりますの」
「容量が上がった?」
「ええ。森で黒い小鬼と戦った時に気づきましたわ。あの時わたくしが放った力は、以前のわたくしには到底出せなかったものです」
確かにそうだった。
シャールは森での戦いを思い返した。セフィラがあの怪物を圧殺した瞬間の凄まじい念動力。空気を圧縮し、熱を生み出し、敵を焼き尽くした。あれはもはや魔術と呼んでも差し支えないほどの規模であった。
「成長しているということか」
「おそらくは。でも成長に制御が追いついていないのです。今のわたくしが部屋の掃除をしようとしたら、埃を集めるどころか部屋ごと吹き飛ばしてしまいかねませんわ」
セフィラは困ったように笑った。
「もしかしたら」
彼女は言葉を切り、何かを考えるように視線を落とした。
「わたくしの意思の問題なのかもしれません」
「意思?」
「ええ」
セフィラはシャールの顔を見つめた。その翠色の瞳には真剣な光が宿っている。
「わたくしは……シャールとこうして王国の外で暮らすようになって、以前よりも幸せだと思う事が増えたのです」
その言葉に、シャールは黙って耳を傾けた。
「王宮にいた頃のわたくしは、常に何かを抑え込んでおりました。公爵令嬢としての振る舞い、婚約者としての立場、エルデ家の名に恥じぬ態度……そういったものに縛られて、本当の自分を押し殺していたのかもしれません」
セフィラの声が少しだけ震えた。
「でも今は違いますわ。わたくしはわたくしのままでいられる。シャールの傍にいて、好きなことを話して、好きなように笑って……この先もずっと一緒にいたい。でもただ一緒にいるだけじゃなくて、世界中を見て回りたい。そんな風に思っているのです」
彼女は自分の胸に手を当てた。
「この、何というのでしょう……わたくしの中で膨らんでいる何か。それが力に影響を与えているような気がしますの。抑え込んでいたものが解放されて、それが力となって溢れ出ているのかもしれませんわ」
シャールは黙ってセフィラの言葉を噛み締めていた。
なるほど、と思う。
力というものは精神と密接に結びついてるものだ。心が安定すれば力も安定し、心が乱れれば力も乱れる。狼狽えて闇雲に振った剣と、心静かに集中して意を決して振り切った剣──どちらが相手をより深く切り裂けるか、という話である。だとすれば、セフィラの心境の変化が力の変容を招いていても不思議ではない。
抑圧からの解放は確かに力を増幅させるだろう。だが同時に、制御を難しくもする。今まで蓋をしていた壺の蓋が外れたようなものだ。中身は溢れ出ようとするし、それを収めるには壺そのものを大きくするか、新たな蓋を作るかしなければならない。
「いずれ慣れるさ」
シャールはセフィラの手を取った。
「力が増したならそれに見合う制御を身につければいい。時間をかけて、少しずつ」
「そうですわね」
セフィラは頷いた。
「焦る必要はありませんわ。わたくしたちには時間がある」
二人は顔を見合わせ、小さく笑い合った。
窓の外では鳥が鳴いている。朝の光が部屋を満たし、清掃を終えた空間には清々しい空気が漂っていた。散らかっていた衣服は片付けられ、埃は払われ、すべてが整然とした状態に戻っている。
「さて」
シャールは伸びをしながら言った。
「そろそろ起きるか」
「もう少しこのままでいたいですわ」
「腹が減った」
「わたくしも」
「では起きよう」
「……はい」
渋々といった様子でセフィラは寝台から身を起こした。
◆
昼を過ぎた頃、二人は宿を出て街へと繰り出した。
ラスフェルの街並みは相変わらず活気に満ちている。石畳の通りを行き交う人々、荷車を引く商人、剣を帯びた冒険者たち。様々な人種と職業の者どもが入り乱れ、この自由都市特有の雑多な空気を形成していた。
冒険者ギルドの近くには食堂や酒場が軒を連ねているが、二人が足を向けたのはそちらではなかった。ギルドから少し離れた一角、職人街と呼ばれる地域の外れにある小さな食堂である。
看板には『赤銅の剣亭』とあった。ちなみにこれはギンタマが居座っている『赤銅の盾亭』の姉妹店である。 質素な構えの店で、入り口の扉は使い込まれて飴色に変わっている。窓ガラスには曇りがあり、店内の様子はよく見えない。だがそこから漂ってくる煮込み料理の匂いは食欲を刺激するものだった。
「ここですの?」
セフィラが首を傾げた。
「ああ。リッキーに教えてもらってな」
「冒険者の姿は見えませんわね」
「ああ、敢えて選んだんだ」
ラスフェルにおいて、食堂や酒場は大きく二種類に分けられていた。
一つは冒険者を主な客層とする店であり、もう一つは一般の市民を対象とする店である。この区分けは明文化されているわけではないが、長年の慣習として自然と成立していた。
その理由は単純明快であった。
冒険者というのは総じて荒っぽい連中である。依頼から戻れば酒を浴びるように飲み、気に入らぬことがあれば拳を振るう。喧嘩沙汰は日常茶飯事であり、時には刃物が抜かれることすらあった。そのような者どもと同じ空間で食事を取ることを好まぬ市民は多い。
だから棲み分けが生まれた。
冒険者向けの店は騒がしくても構わぬ者が集まり、市民向けの店は静かに食事を楽しみたい者が集まる。店主たちもそれを心得ており、自ずと店の雰囲気や料理の傾向も異なってくる。冒険者向けの店は肉料理が中心で量が多く、酒の種類も豊富だ。市民向けの店は野菜や穀物を使った素朴な料理が多く、酒よりも茶や水が好まれる。
赤鍋亭は後者に属する店であった。
扉を開けて中に入ると、想像通りの光景が広がっていた。木製のテーブルが六つほど並び、壁際にはカウンター席がある。客の姿はまばらで、職人風の男が一人と、買い物帰りらしき女が二人、それぞれ別のテーブルで食事を取っていた。
「いらっしゃい」
カウンターの奥から声がかかった。恰幅の良い中年の女である。店主の妻か、あるいは店主そのものか。彼女は二人の姿を一瞥し、微かに眉を寄せた。
シャールとセフィラの装いは冒険者のそれである。革鎧こそ着けていないものの、動きやすい服装に剣帯。どう見ても一般市民ではない。
だが女は何も言わなかった。ただ無言で奥のテーブルを顎で示し、二人をそちらへ促す。
「注文は?」
「今日の定食を二つ」
「分かった」
それだけのやり取りで、女は厨房へと引っ込んでいった。
シャールとセフィラは向かい合って席に着いた。テーブルの上には使い古された木の匙と、水の入った陶器の杯が置かれている。
「静かですわね」
セフィラが周囲を見回しながら言った。
「ああ。こういう店の方が落ち着く」
「日没亭のような賑やかさも嫌いではございませんけれど」
「たまにはな」
二人は水を飲みながら料理が来るのを待った。
やがて運ばれてきたのは素朴な煮込み料理だった。根菜と豆を柔らかく煮込んだもので、肉は入っていない。添えられた黒パンは少し硬いが、煮込みの汁に浸せば丁度良い塩梅になる。
「いただきます」
セフィラが両手を合わせ、シャールもそれに倣った。
匙を口に運ぶ。滋味深い味わいが舌の上に広がる。派手さはないが、身体の芯から温まるような料理だった。
「美味しいですわ」
「ああ」
二人は黙々と食事を進めた。
窓の外を人が通り過ぎていく。職人らしき男が道具箱を担いで歩き、子供たちが駆け回っている。平和な光景だった。
ふと、シャールは思った。
こういう日常が続けばいい。何も起こらず、何にも追われず、ただ穏やかに日々を過ごしていければいい。無論それは叶わぬ願いだと分かっている。ウェザリオ王国からの追手がいつ現れるか知れぬし、この街の立場だって盤石ではない。いずれ何かが起きる。そういう予感は常にある。
だが今だけは、この静けさを享受していたかった。
「シャール」
セフィラが声をかけた。
「何だ」
「何を考えていらっしゃいますの」
「別に。何も」
「嘘ですわ」
セフィラは微笑んだ。
「顔に書いてありますわよ。難しいことを考えているときのシャールの顔」
「そんな顔をしていたか」
「ええ」
シャールは肩をすくめた。
「ただ……この日常が続けばいいと思っただけだ」
「まあ」
セフィラの瞳が柔らかく細められた。
「わたくしも同じことを考えておりましたわ」
「そうか」
「ええ」
二人は顔を見合わせ、小さく笑った。
そこへ、店の扉が開いて新たな客が入ってきた。若い男女の二人連れである。彼らもまた冒険者の装いをしており、店主の女が僅かに眉をひそめるのが見えた。
だがやはり何も言わず、彼女は二人を別のテーブルへと案内した。
「この店、冒険者を嫌がっているようですわね」
セフィラが小声で言った。
「そうだな」
「でも追い返されはしませんでしたわ」
「金を払う客を追い返す道理はないからな。ただ、あまり歓迎されていないのは確かだろう」
「冒険者の評判は芳しくないのでしょうか」
「一部の者どものせいだろう」
シャールは煮込みを口に運びながら続けた。
「酔って暴れる、喧嘩を起こす、金払いが悪い……そういう連中がいれば、冒険者全体の印象が悪くなる。真面目にやっている者からすれば迷惑な話だが」
「どこの世界でも同じですわね」
「ああ」
食事を終え、勘定を済ませて店を出た。
午後の陽光が眩しい。通りには相変わらず人々が行き交い、ラスフェルの日常が淡々と続いている。
「少し歩きませんか」
セフィラが提案した。
「ああ」
二人は並んで歩き始めた。
特に行く宛てがあるわけではない。ただ腹ごなしに歩いているだけだ。それでも隣にセフィラがいるというだけで、退屈な散歩にも意味が生まれるような気がした。
職人街を抜け、商業区へと入る。ここは店が立ち並び、人通りも多い。香辛料の匂い、果物の甘い香り、焼きたてのパンの匂い。様々な香りが混ざり合って独特の雰囲気を作り出している。
「あら」
セフィラが足を止めた。
「あれは何ですの」
彼女が指差す先には小さな屋台があった。串に刺した何かを焼いており、香ばしい煙を上げている。
「焼き鳥だな」
「焼き鳥?」
「鶏肉を串に刺して焼いたものだ。この街では珍しくない」
「食べてみたいですわ」
「今食事を終えたばかりだろう」
「別腹というものがございますの」
シャールは苦笑しながら財布を取り出した。銅貨を数枚渡して串を二本購入する。セフィラは嬉しそうにそれを受け取り、ひと口齧った。
「美味しいですわ」
「そうか」
「シャールもどうぞ」
「ああ」
二人は焼き鳥を齧りながら歩き続けた。
油の滴る肉を頬張り、時折立ち止まっては店先の品物を眺める。特に何かを買うわけではないが、見て回るだけでも楽しい。これが二人きりの休日というものだった。
やがて商業区を抜け、広場に出た。
街の中央に位置するこの広場には噴水があり、その周りにはベンチが並んでいる。休憩を取る者、待ち合わせをする者、子供を遊ばせる親。様々な人々が思い思いの時間を過ごしていた。
二人は空いているベンチを見つけて腰を下ろした。
「いい天気ですわね」
セフィラが空を見上げた。
「ああ」
「こういう日がずっと続けばいいのに」
「さっき私が言ったことと同じだな」
「ふふ、そうですわね」
セフィラはシャールに寄り添うように身を寄せた。
「シャール」
「何だ」
「わたくし、今とても幸せですわ」
「私もだ」
そう言いながら、シャールはセフィラの手を握り返した。




