第36話 愛
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黒い矢はシャールの眼球まであと爪の厚みほども残さぬ距離で、唐突にその運動を停止していた。
糸で吊るされたわけでも、透明な壁に突き刺さったわけでもない。そこにある空間そのものが凍結したかのように、矢は運動エネルギーを完全に剥奪され、空中に縫い留められていた。物理法則の突如とした不在である。その異常な静止画を前にして、シャールの思考は一瞬にして白く塗り潰される。森の腐臭も、黒い小鬼の咆哮も、全身の痛みさえもが遠のき、ただ目の前の黒い羽根だけが鮮明な現実として網膜に焼き付いた。
視界の端、闇が最も濃く淀んだ場所から、ひとつの影が音もなく歩み出てくる。
亜麻色の髪が月光を吸って冷たく輝いていた。豪奢なドレスの代わりに冒険者の簡素な服を纏っているがその立ち居振る舞いは王宮の回廊を歩く公爵令嬢のそれと些かも変わらぬ優雅さを湛えている。ただひとつ、翠色の瞳だけを除いて。その瞳は硝子玉のように硬質で感情の一切を映さない無機質な光を湛えていた。
「ああ、勘違いなさらないでシャール。わたくし、怒ってはいませんわ」
セフィラはそう言って、シャールに微笑みかけた。その笑みは氷細工のように精巧でそれゆえに触れれば指が凍りつきそうな冷たさを帯びていた。彼女が右手を軽く払うと、空中に停止していた黒い矢は枯れ枝が折れるような乾いた音を立てて粉々に砕け散り、黒い塵となって夜風に消えた。
黒い小鬼が動いた。獲物を横取りされた怒りか、あるいは本能的に感じ取った新たな脅威への警戒か。その赤く燃える瞳がセフィラを捉え、両腕の刃を振り上げて跳躍する。だがセフィラは一瞥すらくれなかった。
彼女はただ左手の人差し指を指揮者がタクトを振るうように軽く下げただけである。
ドォン、という重く湿った音が響いた。
小鬼の巨体が見えざる巨人の拳で真上から殴打されたかのように地面へめり込んだ。腐葉土が爆ぜ、四肢の骨が軋む音が森の静寂を引き裂く。小鬼は起き上がろうともがくがその背には不可視の山脈が乗っているかのような重圧がかかり、指一本動かすことすら許されない。
「ただちょっと話を聞いてもらいたくて。わたくし、愛とは何かを考えた事がありますの」
唐突な言葉であった。
戦場の真ん中、異形の怪物を前にして語られるべき話題ではない。だがシャールは動けなかった。彼女から放たれる圧倒的な重圧感が物理的な拘束を超えて彼をその場に縛り付けていた。彼女の言葉を遮ることなど、今の彼には許されていないのだと直感が告げている。
「世の中には様々な愛がございますわね。親が子を慈しむ愛、友を思う愛、主君への忠誠という名の愛。書物を紐解けば、愛に関する詩や物語は星の数ほどございます。でも、どれもしっくりきませんでしたの。わたくしにとって愛とはもっと、こう……肌を焼き、骨を軋ませるような、強烈な実感を伴うものでなくてはならない気がしておりました」
セフィラは一歩、また一歩とシャールに近づきながら、視線を彷徨わせるように宙を見上げた。その優雅な歩調とは裏腹に、彼女の周囲の大気は張り詰め、きりきりと音を立てている。
「ただ、シャールがわたくしに国を捨てて一緒に逃げてほしいと言った時、わたくしはこれだと思いましたの。なぜなら、痛かったからです」
彼女は自身の胸元に、白く華奢な手を当てた。
「わたくしはウェザリオ王国の貴族であり、わたくしなりに貴族としての務めを果たそうと思っておりました。国への忠誠心もありましたし、家族を愛してもいました。友人だっていました。その全てを捨ててシャールとともに別人となる。それはわたくしに、身を引き裂かれるような大きな痛みを与えましたわ」
鈴を転がすような声。だがその背景では黒い小鬼が苦悶の声を漏らし始めていた。不可視の圧力が強まっているのだ。小鬼の黒い筋肉が異常な方向にねじれ、骨格が軋む音が彼女の語る愛の独白に対する不気味な伴奏のように響いている。
「でも、後悔はしていないのです。それほどにわたくしはシャールを愛しているので後悔はないのです。ただ、痛みはあった。だからわたくし思ったのです。愛というのは痛みを伴うのだと。それがわたくしの愛なのだと。愛する相手の為に痛みを受け入れる──わたくしはその痛みが好きみたいです」
セフィラの瞳が揺らめいた。そこにあるのは狂気ではない。純粋すぎるがゆえに濁って見える、極限の慕情であった。
「でもね、シャール。わたくしも馬鹿ではありません。そういう愛が歪であることは百も承知なのです」
そう言ってセフィラはまるで何かを大切に包み込むように、ふわりと両手を合わせた。
その動作に呼応して、小鬼を拘束していた圧力が急激に増大した。バキリ、と湿った音がして小鬼の膝が砕け、巨体が強制的に土下座のような姿勢へと折り畳まれる。
シャールの喉が渇いた。言葉が出ない。セフィラから発せられているのは魔力ではない。彼女固有の、理を超えた念動力の奔流だ。だが今の彼女が放つそれは単なる物理的な力場を超え、もっと根源的な情念の重みが乗っているように感じられた。
「わたくしの愛をシャールに押し付けるわけにはいかない……そう思っていたのですけれど、ねえ、シャール。まさかあなたがわたくしと同じだったなんて」
「同じ……?」
ようやく絞り出したシャールの声は掠れて聞き取りにくいものだった。だがセフィラはそれを拾い上げ、にこりと、花が綻ぶような極上の笑みを浮かべた。
「ええ、同じですわ。シャールはきっと、痛みを与える愛を好むのでしょう? わたくしとあれほど愛を誓い合ったのに、こうしてわたくしをおいて死地へと向かって。怪我までして。でもそれはわたくしを愛するがゆえにそうしたのですよね。危険から遠ざけることが愛だと、身を削ることが愛だと、そう判断なさった」
彼女の瞳の奥で翠色の炎がゆらりと揺らめいた。
「わたくしはそんな風に気遣われても全然嬉しくはなかったし、裏切りだと絶望もしましたがでもそれが愛ゆえの行動ならば話は変わってくるのです。シャール、わたくしはあなたに愛されたいの。だから単に裏切られたりするのは嫌ですわ。でも、愛ゆえの今回の仕儀であるならば、わたくしは喜んで受け入れますわ。あなたがわたくしに与えたこの不安も、焦燥も、絶望も、すべて愛の証として飲み干しましょう」
そして黒い小鬼が二人の会話を邪魔するように、いや、耐え難い苦痛に抗うように絶叫した。その声にはもはや殺意はなく、ただ純粋な生物としての恐怖と苦悶だけが満ちている。
セフィラは目を大きくまん丸に見開き、合わせていた掌をさらに強く、ぎゅうと押し付けた。
「お静かに」
冷徹な一言と共に、空間そのものが圧縮されたかのような衝撃が走った。黒い小鬼の身体がさらに小さく、密に押し潰されていく。バキバキと全身の骨が砕ける音が連続し、黒い皮膚が圧力に耐えきれず裂けていく。小鬼は動かなかったのではない。動けなかったのだ。四方八方から万力で締め上げられるような力がその存在を一点へと収束させようとしていた。
「シャール、愛云々を抜きにしても私を連れていくべきでしたわ。物事には相性というものがあるとおもうのです」
セフィラは淡々と説明を続けた。その視線は潰れゆく小鬼に向けられているがまるで庭木の剪定でもするかのような無造作さである。
「この小鬼、物理的な斬撃や打撃に対しては驚異的な再生能力を持っていますわね。切っても突いても、傷口から新たな肉が湧いてくる。ですが全体を均一に、同時に圧迫し続けたらどうなると思われます? 再生する隙間も、逃げる場所もない。細胞の一つ一つに至るまで逃れようのない檻に閉じ込められたら」
セフィラがしているのは巨大な出力の念動力で小鬼を圧迫しているだけである。だが彼女はただ押し潰しているのではない。周囲の空気ごと、圧縮していた。
ここで一つ、物理法則のいたずらについて触れておかねばなるまい。空気とは普段は存在すら意識させぬ希薄な流体であるが、ひとたび逃げ場を奪われ極限まで圧縮されると、その姿を劇的に変える。分子同士が過密状態で激しく衝突し、その運動エネルギーが行き場を失って熱へと転換されるのだ。いわゆる断熱圧縮と呼ばれる現象であるがセフィラの行使する圧力は自然界ではあり得ない規模であった。数トンもの大気が掌サイズまで圧縮された時、そこには太陽の欠片にも等しい灼熱地獄が顕現するのである。
「熱い……」
シャールは肌を焼くような熱気を感じて後ずさった。小鬼の身体から煙が上がり始めている。圧縮された空気が急激に熱を帯び、小鬼を灼熱の釜で茹で上げるように焼き始めたのだ。黒い皮膚が焦げ、水蒸気爆発のような音が体内で響く。再生しようとした肉がその端から炭化し、炭化した組織がさらに圧力で粉砕されていく。
「あら?」
ふいにセフィラが小首を傾げ、力を僅かに緩めた。
小鬼の様子がおかしい。熱と圧力で苦しんでいるのは間違いないのだがその胸部が大きく膨れ上がり、何かを吐き出そうとして激しく嗚咽している。
「ガ、アアアッ」
小鬼が顎が外れるほどに口を開いた。黒い粘液と共に、何かが湿った音を立てて吐き出される。それはボロ雑巾のようにぐったりとした、小柄な人影であった。
セフィラが力を解くと、小鬼はその場に崩れ落ち、憔悴しきった様子で荒い息を吐いた。傍らには粘液にまみれた女性が倒れている。東洋風の顔立ち。サヨリだ。彼女はピクリとも動かないが胸は微かに上下しており、まだ息があることが見て取れた。
小鬼はサヨリとセフィラを交互に見比べ、やがて震える唇を開いた。赤い瞳からは先ほどまでの凶暴な光が消え、あるのは哀れなほどの怯えだけであった。
『タ、スケテ』
しわがれた、だが確かに意味の通る言葉であった。人を取り込んだことで言語能力をも得たのか、あるいはただの真似事か。
シャールは資料庫で聞いた老人の言葉を思い出した。小鬼は狡猾だ。傷ついたふりをして同情を誘い、近づいた者の喉を掻き切る。
「セフィラ、気をつけろ。そいつは──」
注意を促そうとしたシャールの言葉を遮り、セフィラは冷ややかに言い放った。
「嫌ですわ」
彼女が再び両手を合わせると、今度こそ逃れようのない超圧力の檻が小鬼を閉ざした。
「実は──これはさっき初めて試しましたの。わたくし、ほら、色々書物を読んでいるでしょう? 書の知識で“力”の工夫ができたら、と思っていたのです」
セフィラは楽しげに語りながら、指先に込める力を強めていく。小鬼の絶叫が熱波にかき消され、黒い巨体が赤熱し、収縮していく。
「実際、色々と示唆するような記述がありましたわ。例えば、『万象の流転と熱の起源』という古い書物にこうあります。『不可視の流体が逃げ場を失い、極限まで押し込められし時、その摩擦は太陽の似姿を生む』と。著者は理論上の可能性としてしか述べていませんでしたがわたくしの力ならば再現できるのではないかと常々考えておりましたの」
小鬼の姿はもう見えなかった。そこにあるのは赤く発光する球状の熱源と、そこから立ち昇る黒い煤だけである。やがてセフィラがふっと息を吐き、両手を開くと、熱の塊は弾けるように拡散し、あとには炭化した何かと、焼け焦げた地面だけが残された。
森に静寂が戻った。
異臭はまだ残っているがあの圧倒的な悪意の気配は消え失せている。サヨリが奇跡的に火傷を負わずに倒れていたのは、セフィラが巧みに力の及ぶ範囲を調整したからであろう。
セフィラはスカートの埃を払うと、ゆっくりとシャールに向き直った。その瞳からは先ほどの冷徹さは消え、いつもの穏やかな翠色が戻っている。
「シャール、わたくしに何か言うべきことはございませんか?」
シャールは剣を鞘に納め、一歩彼女に近づいた。喉の奥に詰まっていた言葉は幾つもある。謝罪、感謝、安堵。だが彼女が求めているのはそれらではないことを今のシャールは痛いほど理解していた。
「……すまなかった」
口をついて出たのはやはり謝罪だった。しかしセフィラは小さく首を横に振る。
「そうではありませんわ」
「危険な目に遭わせたくなかったんだ」
「それも違います」
セフィラはまっすぐにシャールを見つめている。その視線はシャールの魂の奥底にある最も柔らかく、最も隠しておきたい部分を暴き出そうとしていた。
シャールは少し考え、大きく息を吸い込んだ。
夜の冷たい空気が肺を満たし、熱を持った思考を冷却していく。彼は自身の強欲さを認めた。彼女と共にありたいと願ったエゴを彼女に痛みを強いた罪をそしてそれらすべてをひっくるめた感情の名前を。
ややあって、シャールはセフィラに告げた。
「愛している」
その言葉が落ちた瞬間、セフィラの表情が溶けた。
氷が春の日差しを受けて水になるように、強張っていた頬が緩み、瞳が潤み、頬が薔薇色に染まる。彼女は満足そうに微笑むと、小鳥が巣に帰るような自然さでシャールの胸の中に飛び込んだ。
「ええ、わたくしもですわ」
シャールは彼女の身体を抱きしめた。




