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追放された王太子と公爵令嬢が冒険者になる話  作者: 埴輪庭
第一章

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第34話 王種⑨

 ◆


 シャールと黒い小鬼の戦いは奇妙なまでに拮抗していた。一方には無尽蔵とも見える膂力と、斧に変じた右腕による破壊の暴威があり、他方には常人離れした回避の技巧がある。斧腕が振り下ろされるたびに大地は裂け、木々は薙ぎ倒され、空気そのものが悲鳴を上げて逃げ惑った。だがその悉くがシャールの肉体を捉えることなく空を切っていく。


 シャールの動きは尋常ではなかった。


 彼は黒い小鬼の攻撃をあたかも未来を視ているかのように躱し続けているのである。斧腕が振り上げられる刹那には既にその軌道の外へと身を翻し、横薙ぎが繰り出される頃には既に着地点を変えている。先読みというには正確に過ぎ、反射神経というには余裕があり過ぎた。常人の目には彼が敵の動きを予知しているようにしか見えぬであろう。


 だが実のところ、これは予知でも未来視でもなかった。


 シャールの"力"、すなわち感覚拡張領域とでも呼ぶべきその異能は意識を物質的な肉体の枠を超えて周囲に展開し、空間を己の延長として把握する術である。薄い膜のごとく周囲に張り巡らされた知覚の網は敵の筋肉の微細な収縮をも捉えていた。腕が動き出す寸前の、筋繊維が束ねられていく瞬間。それを感知すれば、攻撃が放たれる軌道は自ずと予測できる。敵が動作を開始するよりも先に回避を始められるのだから傍目には未来予知と区別がつかぬのも道理であった。


 いわば網のようなものだ。


 蜘蛛の糸を思い浮かべればいい。あの繊細な糸に獲物が触れると、振動が巣の中心へと伝わり、蜘蛛は獲物の位置を正確に把握する。シャールの感覚拡張領域もそれと同じ原理であった。周囲の空気そのものに己の意識を浸透させ、そこに起こる微細な変動を読み取る。敵が腕を振り上げれば空気が圧縮され、その圧力波が網を揺らす。足を踏み出せば地面が震え、その振動が網を揺らす。ありとあらゆる動きが彼にとっては鐘の音のごとく明瞭に知覚されるのである。


 無論、これには代償がある。


 意識を常に外へと拡張し続けることは精神に著しい負荷をかけた。集中力の持続には限界があり、網の精度を維持するほど消耗は激しくなる。例えるならば、眼を見開いたまま瞬きを禁じられているようなものであった。最初のうちは何ともなくとも、時間が経つにつれて目は乾き、焦点は揺らぎ、やがては視界そのものが霞んでいく。シャールの"力"もまた同様で長時間の使用は精神を磨耗させ、肉体にも確実に疲弊を蓄積させていくのであった。


 斧腕が唸りを上げて横薙ぎに振るわれる。


 シャールは低く身を沈めてそれを躱した。黒い刃が頭上を通過し、背後の大木を根元から両断する鈍い音が響く。返す刃で振り下ろされた追撃は横へ転がることで避け、さらに追い縋ってくる蹴りは跳躍して躱した。着地と同時に反撃を試みる。意識を収束させ、不可視の刃を形成して斬りつけると、黒い小鬼の脇腹に深い切り傷が走った。だが傷口は見る間に塞がっていく。


 削れてはいる。だが追いつかない。


 シャールの額には汗が滲んでいた。回避そのものに肉体的な負担はさほどない。だが"力"の連続使用が精神を容赦なく消耗させていく。集中力の井戸から水を汲み続けているようなもので汲めば汲むほど底は近づいていた。


 黒い小鬼もまた、焦れているようであった。


 攻撃の速度が上がっている。だがそれは必ずしも脅威の増大を意味しなかった。焦燥は精度を損なう。力任せに振り回される斧腕は確かに威力こそあれ、その軌道は却って読みやすくなっていた。シャールはその隙を突き、反撃の刃を叩き込み続ける。一撃、また一撃。黒い血が飛沫き、肉が裂け、骨が軋む音がする。そのたびに小鬼は僅かに後退を強いられた。


 均衡。


 互いの強みがぶつかり合い、どちらも決定打を与えられぬまま時間だけが過ぎていく。消耗戦の様相を呈していたがどちらが先に底をつくかは予断を許さなかった。黒い小鬼の再生能力は凄まじいものがあったがそれも無限ではあるまい。削り続ければいずれは限界が来る。問題はシャールの精神がそれまで保つかどうかであった。


 やがて、均衡が崩れる瞬間が訪れる。


 それは黒い小鬼の斧腕をシャールが切り落とした時のことである。


 力任せに振り下ろされた一撃があった。


 大上段からの渾身の斬撃。シャールはそれを紙一重で躱した。斧腕が地面に叩きつけられ、衝撃で土砂が噴き上がる。その刹那、シャールは前へ出ていた。躱すのではなく、踏み込んだのである。


 勢い余って態勢を崩した小鬼。


 その隙を逃さなかった。腰の長剣を抜き放ち、斧腕の付け根に向かって横薙ぎに斬りつける。ガッツから譲り受けた無骨な実剣が黒い肉を両断する確かな手応えを返してきた。


 力任せに振るわれる斧腕の勢いを利用したカウンターであった。


 "力"による不可視の刃ではなく、あえて実剣を用いた。理由は単純明快で不可視の刃では斬り落とせなかったのである。何度か試みはした。だが黒い肉体は"力"による攻撃に対して妙な親和性を示し、刃を吸い込むようにして威力を殺してしまう。魔力を媒介としない純粋な意志の力であっても、この怪物の肉体は異質な力に対する何らかの耐性を持っているようであった。ならば物理的な刃で斬るしかない。


 だがそれには危険が伴った。


 実剣で斬りつけるには相手の間合いに踏み込まねばならない。一歩誤れば即座に反撃を喰らう距離。しかもシャールの得物は長剣とはいえ人並みの刃渡りであり、斧腕のリーチには遠く及ばない。懐に飛び込むしかなく、それは綱渡りにも等しい賭けであった。


 ぎりぎりまで引き付けてのカウンター。


 リスクは高い。高いがそのリスクを支払わねば報酬が得られないのならばそうするしかなかった。そしてシャールの目論見は見事に的中したのである。



 斧腕が地面に落ちた。


 どさり、という鈍い音と共に、黒い塊が腐葉土の上に転がる。切断面から黒い血が噴き出し、小鬼が絶叫を上げた。人の言葉ではない。獣の咆哮でもない。何か別の、この世のものとは思えぬ音が森を震わせる。


 だがその悲鳴は長くは続かなかった。


 シャールの目が見開かれる。


 切断された右腕の付け根が蠢き始めていた。黒い肉がどろりと溶け、泡立ち、そして新たな形状を取り始める。だがそれは斧腕ではなかった。細く、鋭く、刃物のように研ぎ澄まされた何か。一対の、刃。


 左腕もまた同時に変形していく。


 腕としての形状を完全に放棄し、肘から先が長大な刃と化していった。両腕が刃物。まるで螳螂の鎌のごとき形状である。月光を反射して鈍く光るその漆黒の刃には斧腕にはなかった鋭さがあった。切れ味を優先した形態変化。破壊力よりも精度を、力よりも速度を選んだということだ。


 そしてもう一つ、異変があった。


 黒い小鬼の腹に、顔が浮かんでいる。


 先ほどJJの顔が胸に浮かんでいたが今度は別の顔だ。腹部の皮膚が盛り上がり、そこに人の顔が形成されていく。浅黒い肌、短く刈り込んだ黒髪、苦悶に歪んでいる表情。シャールは知る由もなかったがその顔はムーキーという名の男であった。調査隊を率いていた軽装戦士。南方の島嶼地帯の出身で二本の短剣を操る素早い連撃を得意としていた男である。


 その男の技術が今、黒い小鬼に流れ込んでいた。


 胸のJJ、腹のムーキー。二人の冒険者を取り込んだこの怪物は彼らの持っていた技術や経験をも吸収しているのだろうか。斧腕を用いた力任せの攻撃から、双刃による素早い連撃への転換。それは単なる形態変化ではなく、戦闘スタイルそのものの変化であった。


 小鬼が動いた。


 先ほどまでとは動きが違う。機敏だ。地を蹴る足運びに無駄がなく、両腕の刃が旋風のごとく繰り出されてくる。斧腕の時は一撃一撃が重く、その分だけ隙も大きかった。だが今は違う。軽い。速い。そして的確だ。


 シャールはそれを躱した。だが余裕がなかった。


 "力"の網が捉える情報量が爆発的に増大している。先ほどまでの単調な攻撃であれば、振り上げから振り下ろしまでの軌道を予測すれば事足りた。だが今は違う。刃が繰り出される頻度が倍増し、しかもその軌道は複雑怪奇に変化する。右から斬りつけると見せかけて左に転じ、下から掬い上げると思えば横薙ぎに変わる。予測と現実の誤差が広がり、回避の精度が落ちていく。


 汗が滴った。


 額から頬を伝い、顎から滴り落ちる。シャールの呼吸が乱れ始めていた。"力"の連続使用が限界に近づいている。精神の井戸は既に底が見え、汲み上げる水は濁り始めていた。集中力の維持が困難になり、網の精度が揺らぎ始める。


 猛攻は止まらなかった。


 右の刃、左の刃、右、左、右、左。休む間もなく繰り出される斬撃の嵐。シャールはそれを辛うじて躱し続けていたが徐々に追い詰められていく。後退を余儀なくされ、木の幹に背中がぶつかった。逃げ場がない。


 刃が閃く。


 左腕に熱が走った。


 見れば、上腕の外側が浅く切り裂かれている。黒い刃がかすめたのだ。血が滲み、革鎧の隙間から流れ落ちていく。傷は浅い。筋肉には達していない。だが戦闘が開始してから初めて受けた傷であった。


 シャールは横へ飛び退き、距離を取った。


 傷口を一瞥する。出血は少ない。動きに支障はない。だが──


 ──僥倖だ。


 シャールの口元が微かに緩んだ。内心でそう呟いていたのである。


 敵は二つ目の顔を腹に浮かべ、戦闘スタイルを一変させた。破壊力偏重から手数重視へ。学んでいると見える。シャールの回避能力に力押しでは通用せぬと悟り、手数で圧倒する戦法に切り替えたのだ。確かにそれは正しい判断であった。現にシャールは傷を負った。追い詰められつつある。


 だが、と冷静な己が囁く。


 まだ札を隠し持っているとは予想していた。あれほどの怪物が斧腕一つで終わるはずがない。問題はその隠し札が何であるかだった。魔術を使ってくる可能性もあった。あるいは毒や呪いの類かもしれなかった。シャールは魔術に対する対応に自信がなかった。ウェザリオ王国で基礎的な知識は学んだものの、自身が扱えぬ業である以上、机上の空論の域を出ない。未知の魔術を繰り出されれば対処できぬ恐れがあった。


 その意味で敵の隠し札が「形態変化による戦闘スタイルの転換」であったことは好材料と言えた。これならシャールにも理解できる。速度と手数で攻めてくるならば、こちらも回避の精度を上げて対応すればよい。難しくはあるが不可能ではなかった。


 腕の傷は浅い。


 札を見る対価としては安かった。敵の手の内が一つ明らかになったのである。総じて、まだシャールの優位は崩れていない。


 呼吸を整える。


 消耗した精神を叱咤し、再び"力"の網を張り巡らせた。揺らいでいた集中力を無理やり引き締め、感覚を研ぎ澄ませていく。残された力は多くない。だがまだ戦える。まだ、勝機はある。


 黒い小鬼が再び動き出した。


 両腕の刃を振り上げ、突進してくる。シャールは迎え撃つ構えを取った。腰を落とし、剣を構え、敵の動きを見据える。網が捉えた情報を瞬時に処理し、最適な回避経路を弾き出していく。


 右から来る。躱す。


 左から来る。躱す。


 下から。躱す。


 上から。躱す。


 斜めから。


 躱──


 ツ、とシャールの鼻から一筋の血が流れた。

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― 新着の感想 ―
取り込まれた黒いナニか、浮かび上がる顔……ウッ……ファンタシースターオンラインのトラウマが……。
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