第一話『旅立ちの静寂と、残された使命』
大図書館都市の朝は早い。
乳白色の朝霧がまだ街路に残る時間だというのに、石造りの重厚な建築物が並ぶ中央広場は、すでに熱気と喧騒に包まれていた。
ここは「知」の総本山。夜明けと共に研究室へ急ぐ学者や、朝一番で良質なインクと紙を仕入れようとする代筆屋たちが、道具屋の前に行列を作っているのだ。
そんな活気あふれる広場の一角で、一台の馬車が静かに旅立ちの刻を待っていた。
黒雲種の名馬コクヨウが、冷え切った空気の中で白く激しい息を吐き出す。御者台には、岩のように硬い表情の男、ガルムが腰を下ろしていた。
(……うるせえな)
俺は馬車の傍らに立ち、喧騒に包まれた広場を見回した。
普段なら気にならない街の雑音が、今日はやけに耳障りだ。それはきっと、この騒ぎの中に「一番聞きたい声」が欠けているからだろう。
もし、あの子がここにいたなら――。
数か月前までのように、「ショーイチ、忘れ物はない? 」と俺の周りを騒がしく走り回っていただろうか。それとも、あの銀髪の少女へと急激な成長を遂げた今の彼女なら、リンネアの助手らしく、少し大人びたすました顔で荷物の最終確認でもしていたのだろうか。
どちらにせよ、あの銀色の髪がこの朝霧の中にないという事実は、広場の喧騒さえも色褪せたものに変えてしまった。
ポポロは今ごろ、街の南側にある商人ギルドの支部へ向かっている。昨日、俺が「月光紙の販路拡大に関する最終調整だ。お前にしか任せられない」と、もっともらしい理屈を並べて送り出したのだ。
別れの湿っぽさを嫌ったわけではない。……いや、それも少しはあるかもしれないが、最大の目的は、彼女に「自分が守らなければならない居場所」を自覚させることだった。
「ずいぶんと冷酷なことをなさるのですね、タナカ様」
背後から、皮肉めいた、だがどこか温かみのある声が届いた。
振り返ると、正典管理局の制服を端正に着こなした男、エドガーが立っていた。かつて禁書庫で俺たちを監視していた冷徹な記録官の面影は、今やその瞳の奥に潜む隠しきれない敬意と、一抹の不安によって塗り替えられている。
「冷酷? ビジネスの鉄則を教えただけだ。情に流されて仕事を疎かにするようなヤツは、俺の事務所には不要だからな」
俺が鼻で笑うと、エドガーは深く、丁寧に頭を下げた。
「……承知しております。それがあなたの『優しさ』であることも。北の荒野は、法よりも暴力が幅を利かせる野蛮な場所です。……ポポロさんのことは、ドクター・キースと共に、このエドガーが責任を持って守り抜くことをお約束いたします。あなたは、ご自身の成すべきことを成してください」
エドガーの言葉は、事務的な響きを完全に脱していた。一人の大人として、そして過酷な運命を背負った少女の行く末を案じる者としての、真摯な決意がそこにはあった。
「……フン、ずいぶんと殊勝なことだ。しっかりあの子を守って、俺にでかい『恩』でも売っておけよ。代弁士になった俺への貸しなら、高くつくぜ」
俺が不敵に笑うと、エドガーはわずかに口角を上げ、再び深く一礼した。
それが、この大図書館都市での最後のやり取りとなった。
馬車に乗り込むと、対面に座るリンネアが、窓の外をじっと見つめていた。その横顔はいつになく厳格で、同時に何かを堪えているようにも見えた。
客室は、三人で座るには広すぎた。ポポロの小さな体がそこにないだけで、空気の密度が一段下がったような気がする。
ガルムが御者台で鞭を振った。
コクヨウがいななき、車輪が石畳を叩く重い音が響き出す。
ガタゴトと揺れる馬車の中で、リンネアが不意に、座席の隅に置かれていた一枚の月光紙に気づいた。
「……これは?」
彼女がそれを手に取り、視線を落とす。
そこには、俺には「ミミズがのたうち回った跡」にしか見えない、例の流文字が並んでいた。だが、以前のような拙さはみじんもない。リンネアや街の青空教室で必死に学んできた、ポポロの努力の結晶がそこには綴られていた。
「……読んでくれ」
俺が短く言うと、リンネアは小さく頷き、静かにその文字をなぞった。
『ショーイチへ。ボクはここで母さんを守り、月光紙の仕事を立派に務めます。だから、心配しないでください。ショーイチも、どうか道中お気をつけて。代弁士になったあなたに会えるのを、楽しみにしています』
読み上げたリンネアの声が、最後のほうでわずかに震えた。
車内に沈黙が降りる。
俺は窓の外へ視線を転じた。遠ざかっていく大図書館都市の尖塔が、朝霧に溶けて消えていく。
(足手まといだから置いてきたんじゃない……)
俺は内心で、自分自身に言い聞かせるようにつぶやいた。
あの子に月光紙という巨大な利権を、守るべき母親という鎖を与えたのは、俺たちがいない間、彼女が絶望に飲み込まれないようにするため。残酷な運命をただ受け入れるのではなく、「抗ってでも生き抜こうとする意志」を、その小さな両手に握らせるためだった。
馬車は大図書館都市を守る巨大な北門を抜け、盆地を縁取る険しい山々へと続く街道に足を踏み入れた。
背後で、巨大な門が閉まる重厚な音が響く。それは、これまでの平穏な「街」の生活との決別を告げる合図だった。
街道は、切り立った岩山と岩山の切れ目を縫うように、縫い針を通したような心細い勾配を描きながら続いている。盆地を囲むこの天然の障壁を越えるまでは、まだしばらく時間がかかるだろう。
この峠を抜ければ、その先にはかつての大戦の傷跡が残る広大な平原、そして『迷いの森』と呼ばれる巨大な原生林が待ち受けているはずだ。
聖地エルディア。
大図書館都市から北へ、およそ百六十リーグ(約八百キロ)。馬車を急がせても三週間から一か月はかかるであろう、文字どおりの長征だ。
俺は脳内に刻まれた、もはや血肉と化した法律の条文を静かに反芻した。
法で世界を変える。
そのハッタリを現実に変えるための、本当の旅が、今ここから始まるのだ。
第六章 第一話 完




