第十一話『月光紙の革命と、知識の価格破壊』
カルタ・ファブリカの工場内は、熱気と、そして何よりも「勝利」の予感に満ちていた。
工場長のグーテンベルクが、震える手で一枚の紙を俺に差し出した。
「見ろ! これが『月光紙』だ!」
受け取った紙は、驚くほど軽く、そして白かった。
従来の植物紙のような黄ばみやざらつきは一切ない。表面は絹のように滑らかで、光にかざすと、素材である月光綿の特性なのか、微かに青白く発光しているように見える。
「素晴らしい出来だ」
俺は指先でその感触を確かめた。
「インクの乗りはどうだ?」
「最高だ。滲まねえし、裏写りもしねえ。何より、羊皮紙みたいにインクを吸いすぎることがないから、渇きも早い」
グーテンベルクは興奮してまくし立てた。
「強度も申し分ねえ。引っ張っても破れねえし、水にも強い。……こいつは、革命だぞ」
「ああ。革命だ」
俺はニヤリと笑った。
この世界において、本とは「羊皮紙」の束であり、一冊で家が建つほどの高級品だ。知識は特権階級に独占されていた。
だが、この紙なら。
「これで、『知識』の値段が下がる。誰もが本を手にできる時代の幕開けだ」
俺は月光紙の束を掲げた。
「行くぞ、工場長。この街の『常識』をひっくり返してやろうぜ」
***
大図書館都市、中央広場。
その一角に、俺たちは特設の露店を開いた。
看板には大きくこう書かせた。
『最高品質・新型紙 "月光紙"。価格は羊皮紙の十分の一』。
道行く人々――学者、学生、写本職人たちが、最初は胡散臭そうに、やがてその「価格」を見て足を止める。
「おい、見たか? 十分の一だと?」
「どうせ粗悪な植物紙だろう。藁半紙みたいな……」
「だが、あの白さはどうだ? 羊皮紙よりも白いぞ」
ざわめきが広がる中、俺はサクラ役のポポロに目配せをした。
ポポロ(今は愛らしい看板娘の格好だ)が、元気よく声を上げる。
「さあさあ! 見ていって! 試し書きは無料だよ!」
一人の苦学生風の青年が、恐る恐る近づいてきた。
「あ、あの……本当に、試し書きしても?」
「もちろん! はい、どうぞ!」
渡された羽ペンで、青年が月光紙に文字を走らせる。
その瞬間、彼の手が止まった。
「……え?」
青年は目を見開き、さらに数行、夢中で書き連ねた。
「す、すごい……! ペンが滑るように進む! それに、インクが滲まない!」
青年の驚愕の声が、周囲の好奇心に火をつけた。
「本当か?」「貸してみろ!」
次々と人が押し寄せ、試し書きをしては、一様に驚愕の声を上げる。
「なんだこの紙は!」「薄いのに破れないぞ!」「光にかざすと透かし模様が見える……美しい!」
そして、俺がトドメの一言を放つ。
「今なら、この束(百枚)で銀貨一枚だ」
静寂。
次の瞬間、怒涛のような歓声が上がった。
「買った!」「俺もだ!」「あるだけ全部くれ!」
それは、熱狂だった。
知識に飢えた人々にとって、安価で高品質な紙は、喉から手が出るほど欲しい「翼」だったのだ。
用意した初回生産分は、またたく間に完売した。
だが、騒ぎは収まらない。周辺都市から来た行商人たちが、「この紙をうちの街でも売りたい!」と商談を持ちかけてくる。
月光紙の噂は、風に乗って大陸中へ広がろうとしていた。
***
その夜。工場長のオフィス。
祝杯を上げようとしていた俺たちの元に、招かれざる客が現れた。
上等な服を着た、肥満体の男。背後には屈強な護衛を従えている。
「羊皮紙ギルド」の代表者だ。
「……カルタ・ファブリカの工場長だな? それに、そこの余所者」
男は尊大な態度で言った。
「単刀直入に言おう。あの『月光紙』の販売を直ちに停止しろ。さもなくば、価格を羊皮紙と同等まで引き上げろ」
「はあ? 何でそんなことしなきゃなんねえんだ!」
工場長が吠えるが、男は冷ややかに鼻を鳴らした。
「貴様らのやっていることは『価格破壊』だ。市場の秩序を乱し、我々ギルドの利益を損なっている。……これは『警告』だぞ。この街で商売を続けたくば、古くからの掟に従え」
典型的な、既得権益者の圧力だ。
俺はグラスを置き、ゆっくりと立ち上がった。
「混乱? いいえ、これは『進化』ですよ、ギルド長さん」
「なんだと?」
「あんたたちが守っているのは市場の秩序じゃない。自分たちの懐だろ? 高価な羊皮紙を独占販売することで得ていた暴利が、脅かされるのが怖いだけだ」
「き、貴様……!」
図星を突かれた男が顔を真っ赤にする。
「黙れ! 我々には『羊皮紙ギルド憲章』がある! この街での紙の販売は、我々の許可が必要なのだ!」
「あら、そうですか?」
そこで、今まで書類を読んでいたリンネアが顔を上げた。
「都市法第八条および商業ギルド規約第十五項。『新規素材による製品開発および販売は、既存ギルドの管轄外とする』……つまり、羊皮紙ではない『月光紙』は、あなた方の許可など必要ありません」
「な、なんだと!? 屁理屈を……!」
「屁理屈ではありません。法律です」
リンネアは冷徹に言い放った。
男は言葉に詰まり、今度は視線で護衛たちに合図を送った。暴力で黙らせるつもりか。
だが、その瞬間。
ドォン!
部屋の隅に控えていたガルムが、床を強く踏み鳴らした。
ただそれだけで、床板が悲鳴を上げ、護衛たちがビクリと身を縮こませる。
圧倒的な実力差。
ギルド長は脂汗を流し、後ずさりする。
「く、くそっ……! こんなことで済むと思うなよ! 我々の販売網を使わせんぞ! 店に置かせん!」
「……販売網、か」
その言葉に、俺は眉を上げた。
チラリとリンネアを見る。彼女もまた、同じことを考えているようで、小さく頷いた。
(……どうする? こいつら潰してもいいが、販売網を一から作るのは面倒だぞ)
(ええ。彼らの店舗網と顧客リストは魅力的です。……取り込みますか?)
(ああ。そのほうが『効率的』だ)
俺はふっと表情を緩め、両手を挙げてみせた。
「まあまあ、そういきり立たずに。……どうです、ギルド長さん。争うよりも、一緒に儲けませんか?」
「……なに?」
俺はテーブルの上の月光紙を指差した。
「この紙の製造はうちの工場でやります。卸元も俺たちの商会が独占する。これは譲れない」
「だったら話にならん!」
「最後まで聞いてください。……ですが、『小売販売』はすべて、あんたのギルドに委託してもいい」
「……は?」
男が目を丸くする。
「羊皮紙は高級品として残せばいいんです。ですが、大衆向けの『月光紙』をあんたの店で扱えば、客層が爆発的に広がる。学生や庶民が、あんたの店に行列を作るんですよ?」
俺はニヤリと笑った。
「手数料だけで、今の倍は稼げる。……どうです? 悪い話じゃないでしょう?」
ギルド長は計算し、やがてゴクリと唾を飲み込んだ。
敵対していたはずの彼の目に、商売人の色が戻る。
「……倍、だと? ……本気か?」
「嘘はつきませんよ。契約書を作りましょうか?」
俺が手を差し出すと、男は迷った末に、その手をガッチリと握り返した。
「……商談成立だ、タナカさん!」
***
翌日。市長室。
俺は市長のデスクの上に、月光紙のサンプルと、ギルドとの「業務提携契約書」を置いた。
「……ほう」
市長は契約書を手に取り、眼鏡の奥の瞳を光らせた。
「争いではなく、共存を選んだか。……賢明だ」
「争いはコストですからね。それに、彼らの販売網は魅力的だ。おかげで月光紙は、昨日一日で市内全域に流通しました」
俺はニヤリと笑った。
「これで、大図書館都市の『知』は、より多くの人に届くようになる。税収も増える。……市長にとっても、悪い話ではないでしょう?」
市長はふっと表情を緩め、月光紙を指先で弾いた。
「……君という男は。最初はただの荒くれ者かと思ったが、どうやら私は、とんだ古狸を招き入れてしまったようだな」
「褒め言葉として受け取っておきます。……ああ、それともう一つ」
俺は身を乗り出し、声を潜めた。
「生体保存局の一件……例の『重要参考人』の保護についても、引き続きよしなに頼みますよ。彼女が回復すれば、さらに面白い『情報』が手に入るかもしれませんからね」
「……分かっている。生体保存局長には、私から釘を刺しておこう。『貴重なサンプルを損なうな』とな」
市長は重々しく頷いた。
(……悪いな、市長。俺にとっての『価値』は、そんないかがわしい情報じゃない)
俺は内心で舌を出した。
ルナリアは、ポポロの大切な母親だ。利用するだけ利用して、用が済めば捨てるつもりなど毛頭ない。
必ず回復させ、この街から連れ出す。……だが、それを今、この古狸に悟られるわけにはいかないのだ。
俺は表面上、冷徹なビジネスパートナーの仮面を被り続けた。
こうして、俺たちは勝利した。
月光紙の生産ラインは確立され、羊皮紙ギルドをも取り込んだ盤石な販売網が完成した。
俺たちの手元には、安定した資金源と、この街での確固たる地位が残った。
俺は窓の外、活気に沸く街を見下ろした。
「金はある。コネもできた。……あとは」
俺は拳を握り締めた。
「真実をつかむだけだ」
ポポロに隠された秘密。そして、巫女という存在の意味。
すべての謎を解き明かし、最善の未来を勝ち取るための戦いは、まだ始まったばかりだ。
第五章 第十一話 完




