表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
70/73

第十話『命の籠城と、母の願い』

 地下第三区画、特別管理室。

 緊迫した空気の中で、キースが叫んだ。

「活性アンプルだ! それと魔素濃縮液! ありったけ持ってこい!」

 部屋に取り残された研究員たちが、萎縮して動けないでいる。

「突っ立ってんじゃねえ! ドクターの指示に従え!」

 俺が怒鳴りつけると、彼らは弾かれたように動き出し、薬品棚からアンプルや器具をかき集めてきた。

 キースはそれらをひったくり、慣れた手つきで「魔導注入器マナ・インジェクター」にセットする。そして、ルナリアの痩せ細った首筋に押し当てた。

 プシュ、という微かな音と共に、高圧で薬剤が皮膚から浸透していく。

「頼む……戻ってくれ!」

 キースの額から汗が滴り落ちる。

 その横で、ポポロがルナリアの手を両手で包み込んでいた。

「母さん、母さん! ボクだよ、ポポロだよ! 聞こえる!?」

 涙声の叫び。

 俺は奥歯を噛み締め、入口を守るガルムの背中を見つめた。

 ここを死守しなければならない。何があっても。


          ***


 廊下がざわめき、そして静まり返った。

 警備兵たちが左右に分かれ、道を開ける。

 現れたのは、仕立ての良い白衣を着た初老の紳士だった。

 穏やかな顔つきだが、その瞳には感情の色がない。

 生体保存局の職員たちが、その男を見て最敬礼する。その態度だけで、彼がこの施設の頂点に立つ男だと分かった。

「……何の騒ぎだね。神聖な研究の場で」

 静かな声だった。だが、そこには絶対的な支配者の威圧感があった。

 ガルムが無言で剣を構える。だが、男は動じることなく歩み寄り、冷徹な目で俺を見下ろした。

「私は総括保存官グランド・キュレーターのコルネリウスだ。君たちが、不法侵入者かね?」

 俺は前に進み出て、入口に立ち塞がった。

「大図書館都市直轄、特別監査官のタナカだ。現在、重要参考人の救命措置を行っている。立入禁止だ」

 局長は足を止め、俺を値踏みするように見下ろした。

「監査官? そのような報告は受けていない。それに、ここは『大陸評議会』直轄の特別区画だ。市長ごときの権限が及ぶ場所ではない」

「ほう。では『殺害』も許される無法地帯だと?」

 俺の挑発に、局長は薄く笑った。

「人聞きが悪いな。これは『貢献』だ。種の保存のための、崇高な犠牲だよ」

 狂っている。

 俺は内心で吐き捨てたが、表面上は冷徹な仮面を崩さず、懐から市長の委任状を取り出して見せた。

「生憎だが、貴族院もこの監査を認めている。……貴公も、貴族院の決定には逆らえまい?」

 これはハッタリではない。

 この監査は、大図書館都市市長が貴族院を口説き落とし、正式な許可を取り付けたものだ。

 この書類に記された貴族院の署名こそが、最強の「切り札」だ。

「それに俺が問うているのは『損得』だ。この被検体ルナリアが死ねば、お前たちの『研究』とやらは水泡に帰す。違うか?」

 局長の眉がピクリと動いた。

「ドクター・キースは、この貴重なサンプルを救える唯一の医師だ。彼を邪魔して殺せば、お前は歴史的な損失を被るぞ」

 俺は畳みかけた。

「それとも、今ここで俺たちと殺し合いをして、施設ごと吹き飛ばすか? 俺の護衛ガルムは、ここを更地にするくらい簡単だぞ」

 ガルムが呼応するように、剣を一振りした。

 風圧だけで、廊下に突風が巻き起こり、警備兵たちがよろめく。

 ハッタリではない。本気の殺気だ。

 局長はガルムを一瞥し、それから室内のキースとルナリアを見た。

 暴力沙汰で施設が破壊されるリスクと、ルナリア延命のメリット。

 計算高い彼は、すぐに答えを出した。

「……いいだろう。治療を許可する。貴族院には、私から確認を入れておく」

「ああ。ただし、患者の状態が安定するまでは、ここを一歩も動かん」

 一時的な休戦だ。

 局長は警備兵を手で制し、少し下がらせた。だが、その視線は決して俺たちから外れなかった。


          ***


 数時間に及ぶ処置の末、ルナリアの呼吸が安定した。

「……峠は越えた。驚異的な生命力だ」

 ドクター・キースが床に座り込み、荒い息を吐く。

 そのときだった。

「……う……」

 微かな声と共に、ルナリアがうっすらと目を開けた。

「母さん!」

 ポポロがのぞき込む。

 焦点の合わない黄金色の瞳が、ゆっくりと動き、ポポロを捉えた。

「……ポ、ポロ……?」

「うん! 母さん、ボクだよ!」

 ルナリアの目から、一筋の涙がこぼれ落ちた。

 震える手が持ち上がり、ポポロの銀色の髪に触れる。

「大きくなって……綺麗に、なったね……」

 かすれた声。だが、そこには確かな愛があった。

 ポポロも涙を流し、母の手を握り返す。

「母さん、ごめんね。遅くなって……」

「いいの……無事で、よかった……」

 ルナリアは微笑み、そして視線を俺たちに向けた。

 すべてを悟ったような、静かな瞳だった。

「行きなさい、ポポロ」

「え……?」

 ポポロが顔を上げる。

「ここにいては……ダメ。あなたは、自由になりなさい。……その人たちと一緒に」

 ルナリアは、自分の体――骨と皮のように痩せこけ、ベッドから起き上がることもできない体を見下ろした。

「私は……大丈夫。ここで、待っているから」

 それは、娘を巻き込まないための、母の精一杯の嘘と願いだった。自分が足手まといになることを理解しているのだ。

 ポポロは唇を噛み締め、葛藤した。

 だが、やがて涙を拭い、強く頷いた。

「……うん。ボク、行く。行って、必ず戻ってくる。母さんを迎えに」

 ルナリアは満足そうに頷き、再び安らかな眠りに落ちていった。


 俺はキースの肩に手を置いた。

「ドクター。あんたはここに残れ」

「言われなくてもそのつもりだ」

 キースは立ち上がり、白衣を正した。医師としての矜持を取り戻した顔つきだ。

「私がここを離れれば、彼女はまた実験動物に戻される。私は今日から、彼女の『専属医』になる。局長には、貴重なサンプルの管理者として売り込むさ」

 それは、キース自身が人質となり、ルナリアを守るという決意だった。

「……すまん」

「謝るな。これは私が選んだ道だ。それに……」

 キースは眠るルナリアを見つめた。

「彼女を救うことは……上級保存官でありながら、生体保存局の闇に気づけず、のうのうと生きてきた、俺の贖罪でもある」

「頼んだぞ、共犯者」

「ああ。……行ってくれ。君たちには、やるべきことがあるはずだ」


 俺たちは部屋を出た。

 廊下には、局長と警備兵たちが待ち構えていた。

 俺は局長の前で足を止め、冷ややかに告げた。

「治療は終わった。約束どおり出ていく。……だが、忘れるなよ」

 俺は親指で背後の部屋を指した。

「あの患者は俺の『重要参考人』だ。次に会うときまで、傷一つ付けるなよ」

 局長は無言で道を空けた。

 ポポロは一度だけ振り返った。

 そして、前を向く。

 その瞳には、涙の跡はなく、新たな決意の炎が宿っていた。

 背後で重厚な扉が閉まる音。

 それは、一時的な別れであり、必ず戻ってくるという約束の音だった。

 俺たちは、敵意に満ちた生体保存局を、堂々と歩いて去っていった。


第五章 第十話 完

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ