第十話『命の籠城と、母の願い』
地下第三区画、特別管理室。
緊迫した空気の中で、キースが叫んだ。
「活性アンプルだ! それと魔素濃縮液! ありったけ持ってこい!」
部屋に取り残された研究員たちが、萎縮して動けないでいる。
「突っ立ってんじゃねえ! ドクターの指示に従え!」
俺が怒鳴りつけると、彼らは弾かれたように動き出し、薬品棚からアンプルや器具をかき集めてきた。
キースはそれらをひったくり、慣れた手つきで「魔導注入器」にセットする。そして、ルナリアの痩せ細った首筋に押し当てた。
プシュ、という微かな音と共に、高圧で薬剤が皮膚から浸透していく。
「頼む……戻ってくれ!」
キースの額から汗が滴り落ちる。
その横で、ポポロがルナリアの手を両手で包み込んでいた。
「母さん、母さん! ボクだよ、ポポロだよ! 聞こえる!?」
涙声の叫び。
俺は奥歯を噛み締め、入口を守るガルムの背中を見つめた。
ここを死守しなければならない。何があっても。
***
廊下がざわめき、そして静まり返った。
警備兵たちが左右に分かれ、道を開ける。
現れたのは、仕立ての良い白衣を着た初老の紳士だった。
穏やかな顔つきだが、その瞳には感情の色がない。
生体保存局の職員たちが、その男を見て最敬礼する。その態度だけで、彼がこの施設の頂点に立つ男だと分かった。
「……何の騒ぎだね。神聖な研究の場で」
静かな声だった。だが、そこには絶対的な支配者の威圧感があった。
ガルムが無言で剣を構える。だが、男は動じることなく歩み寄り、冷徹な目で俺を見下ろした。
「私は総括保存官のコルネリウスだ。君たちが、不法侵入者かね?」
俺は前に進み出て、入口に立ち塞がった。
「大図書館都市直轄、特別監査官のタナカだ。現在、重要参考人の救命措置を行っている。立入禁止だ」
局長は足を止め、俺を値踏みするように見下ろした。
「監査官? そのような報告は受けていない。それに、ここは『大陸評議会』直轄の特別区画だ。市長ごときの権限が及ぶ場所ではない」
「ほう。では『殺害』も許される無法地帯だと?」
俺の挑発に、局長は薄く笑った。
「人聞きが悪いな。これは『貢献』だ。種の保存のための、崇高な犠牲だよ」
狂っている。
俺は内心で吐き捨てたが、表面上は冷徹な仮面を崩さず、懐から市長の委任状を取り出して見せた。
「生憎だが、貴族院もこの監査を認めている。……貴公も、貴族院の決定には逆らえまい?」
これはハッタリではない。
この監査は、大図書館都市市長が貴族院を口説き落とし、正式な許可を取り付けたものだ。
この書類に記された貴族院の署名こそが、最強の「切り札」だ。
「それに俺が問うているのは『損得』だ。この被検体が死ねば、お前たちの『研究』とやらは水泡に帰す。違うか?」
局長の眉がピクリと動いた。
「ドクター・キースは、この貴重なサンプルを救える唯一の医師だ。彼を邪魔して殺せば、お前は歴史的な損失を被るぞ」
俺は畳みかけた。
「それとも、今ここで俺たちと殺し合いをして、施設ごと吹き飛ばすか? 俺の護衛は、ここを更地にするくらい簡単だぞ」
ガルムが呼応するように、剣を一振りした。
風圧だけで、廊下に突風が巻き起こり、警備兵たちがよろめく。
ハッタリではない。本気の殺気だ。
局長はガルムを一瞥し、それから室内のキースとルナリアを見た。
暴力沙汰で施設が破壊されるリスクと、ルナリア延命のメリット。
計算高い彼は、すぐに答えを出した。
「……いいだろう。治療を許可する。貴族院には、私から確認を入れておく」
「ああ。ただし、患者の状態が安定するまでは、ここを一歩も動かん」
一時的な休戦だ。
局長は警備兵を手で制し、少し下がらせた。だが、その視線は決して俺たちから外れなかった。
***
数時間に及ぶ処置の末、ルナリアの呼吸が安定した。
「……峠は越えた。驚異的な生命力だ」
ドクター・キースが床に座り込み、荒い息を吐く。
そのときだった。
「……う……」
微かな声と共に、ルナリアがうっすらと目を開けた。
「母さん!」
ポポロがのぞき込む。
焦点の合わない黄金色の瞳が、ゆっくりと動き、ポポロを捉えた。
「……ポ、ポロ……?」
「うん! 母さん、ボクだよ!」
ルナリアの目から、一筋の涙がこぼれ落ちた。
震える手が持ち上がり、ポポロの銀色の髪に触れる。
「大きくなって……綺麗に、なったね……」
かすれた声。だが、そこには確かな愛があった。
ポポロも涙を流し、母の手を握り返す。
「母さん、ごめんね。遅くなって……」
「いいの……無事で、よかった……」
ルナリアは微笑み、そして視線を俺たちに向けた。
すべてを悟ったような、静かな瞳だった。
「行きなさい、ポポロ」
「え……?」
ポポロが顔を上げる。
「ここにいては……ダメ。あなたは、自由になりなさい。……その人たちと一緒に」
ルナリアは、自分の体――骨と皮のように痩せこけ、ベッドから起き上がることもできない体を見下ろした。
「私は……大丈夫。ここで、待っているから」
それは、娘を巻き込まないための、母の精一杯の嘘と願いだった。自分が足手まといになることを理解しているのだ。
ポポロは唇を噛み締め、葛藤した。
だが、やがて涙を拭い、強く頷いた。
「……うん。ボク、行く。行って、必ず戻ってくる。母さんを迎えに」
ルナリアは満足そうに頷き、再び安らかな眠りに落ちていった。
俺はキースの肩に手を置いた。
「ドクター。あんたはここに残れ」
「言われなくてもそのつもりだ」
キースは立ち上がり、白衣を正した。医師としての矜持を取り戻した顔つきだ。
「私がここを離れれば、彼女はまた実験動物に戻される。私は今日から、彼女の『専属医』になる。局長には、貴重なサンプルの管理者として売り込むさ」
それは、キース自身が人質となり、ルナリアを守るという決意だった。
「……すまん」
「謝るな。これは私が選んだ道だ。それに……」
キースは眠るルナリアを見つめた。
「彼女を救うことは……上級保存官でありながら、生体保存局の闇に気づけず、のうのうと生きてきた、俺の贖罪でもある」
「頼んだぞ、共犯者」
「ああ。……行ってくれ。君たちには、やるべきことがあるはずだ」
俺たちは部屋を出た。
廊下には、局長と警備兵たちが待ち構えていた。
俺は局長の前で足を止め、冷ややかに告げた。
「治療は終わった。約束どおり出ていく。……だが、忘れるなよ」
俺は親指で背後の部屋を指した。
「あの患者は俺の『重要参考人』だ。次に会うときまで、傷一つ付けるなよ」
局長は無言で道を空けた。
ポポロは一度だけ振り返った。
そして、前を向く。
その瞳には、涙の跡はなく、新たな決意の炎が宿っていた。
背後で重厚な扉が閉まる音。
それは、一時的な別れであり、必ず戻ってくるという約束の音だった。
俺たちは、敵意に満ちた生体保存局を、堂々と歩いて去っていった。
第五章 第十話 完




