長い夜
長い夜
気を緩めてしまえば一瞬の内に遠のいてしまうであろう意識を手放すまいと、綱渡りにも似た心境で必死に耐える。
しかしこれまでに経験したことのないぬるぬるとした感触と、艶めかしいく蠢く指先の感触に意識が引かれ、その度に鳥肌を立たせては手が宙を彷徨った。
「もぅ……もう許してください」
なんとか気力を振り絞り懇願する私の声に答えはなく、代わりに敏感になった肌を沢山の指が這い回り、何かが解放されるのを感じながら、ついに私は意識を手放した。
「う……ん?」
温かく柔らかに包まれたままの浮遊感。耳朶に熱をもたらすものが吐息だったという事に気が付くのは暫くの時間が必要だった。
「気が付いた?」
耳を焼かれそうな囁きが意識を微睡に似た闇から引きずり出すと、私は自分がどのような状況にあったのかとうとう自覚してしまった。
――湯舟の中でエリス様の膝の上に抱き抱えられているというの事に。
「わ、わたし、わぶっぅ!?」
「あン。危ないって、そんなに焦らなくても大丈夫だからお風呂の中で溺れたりしないで」
焦ったあまりつるりと滑って勢いよくお湯の中に滑り落ちた私の顔が、更に柔らかいもので押さえつけられ一瞬パニックになりかける。大きすぎずそれでいて慎ましすぎることもない、美しい双丘に気を取られる余りに、だ。
すかさず体勢を整えてくれたエリス様のお陰ですぐに引き上げられたのだが、いつの間にか髪に巻かれていたタオルはすっかりと水没し、ぐっしょりと吸い込んだ湯を私の顔に滴らせている始末。
「タオル変えないとだね」
チラリと窺ったエリス様は目をやや細め、優しさに溢れた表情で濡れて締まってしまった小さな結び目を解くと濡れたタオルを湯舟の縁に置いた。
「先に使いなさい」
声の方を振り返ればエリス様の出した謎の泡で洗髪中のリーリカ様が、乾いたタオルを差し出してくれていた。
「あの、リーリカ様がお使いになるのでは?」
「私は短いですから後でも構いませんが、貴女はそのままでは髪が湯に浸かってしまうじゃないですか。いいから気にせず使っておきなさい」
差し出されたタオルを受け取って、軽く水気を拭ったところで手早くエリス様が髪を上げて纏めてくれた。一連の流れるような手つきについ流されて、気が付けば私はまだエリス様の膝の上に座っていたという事をすっかりと忘れており、自分がこのあと一体どのような行動をとるべきなのか分からなくなった私は急速に世界が回り出すのを感じたのだった。
◇ ◇ ◇
どれくらいの時が経ったのだろう。ほんの一瞬ではあった筈でも失われた時間に不安は大きく募るもの。まして私はお世話をしなければならない立場だというのに、これでは全く逆ではないか。そう考えると重く粘りついた滓のように自己嫌悪の念が静かに渦巻いてゆく。
ともあれ今は目前の事に集中しよう。そう気を取り直してシミ一つない真っ白な肌を柔らかく洗い上げていく。そう決意した筈なのに、目の前の美しい裸体が説明しがたい感情に火を灯そうと容赦のない攻撃を繰り出してくる。
無論そんな事がある訳ないのだが、私は彼女の美しさに終始打ちのめされるような気分になっていた。長く艶やかなプラチナの髪も、金色の瞳をより印象付ける長い睫毛も、あまつさえ柔らかい起伏の奥に潜む禁断の密林さえも、私の心を捉えて離さない。
もっと知り尽くしたい。湧き上がる感情に身を任せ、その全てを踏破せんと泡を纏った指先は探索を続け、茂みの奥についに見つけた熱い泉に歓喜する。
吐息の白さを増しながらどんどんと加速する私の目には指先を噛み、伏し目がちに小さく震える黒き御使いと頬を朱に染め朦朧とした様子で瞳を細める森の妖精が映っていた。
喉に詰まるような息遣いは魔法のように、暴走する私を加速させ無意識に密着度が増していた。
気が付けばすぐ近くに寄せられる顔。揺れる灯に妖しく照らされる、僅かに開かれた柔らかそうな唇に吸い付きたい衝動が何処からともなく湧き上がり、最早それを押し留める理性など私には残っていなかった。
「エリス……様」
鼻にかかる甘えた声と共に、すぐに満たされる――筈であった。
「……ファウナ? 気が付いた?」
「あ、れ?」
目の前から聞こえる筈の声がやけに遠くから聞こえた気がした。演劇のシーンが切り替わるように、暗転し再び光を取り戻すとぼんやりと私を見下ろすように不安そうに覗き込む主の顔がそこにあった。
「逆上せて倒れちゃったからビックリしたけど、大丈夫そうね」
「???」
いきなりの事に訳が分からない。混乱しながらも周囲を見回すとどうやらベッドに寝かされているらしい自分と、ベッドの横に立ってエリス様が私を覗き込んでいたということを理解した。
「ほら、これ飲んで。慌てなくていいからね。むせないように」
エリス様は私の上半身をゆっくり起こすと、リーリカ様が何も言わず運んできたグラスをとりそっと飲ませてくれる。一口、二口と飲んで、一息つくと自分でグラスを受け取って半分ほどを一気に飲んでしまった。
「あの、すみません……って、エリス様のベッドじゃないですか!? やだ、どうしよう、私」
――もっと早く気が付くべきだった。
後悔したところでなにもかもが遅すぎる。せめてと慌てて場所を移そうとベッドから降りようとしたところを押し留められ、再び横になるように促される。
「私達ももう寝るから。嫌じゃなければファウナもそのままそこで寝ていて」
エリス様はそう言って、羽織っていたガウンをするりと脱ぐと、薄衣を揺らしながら反対側からベッドに潜り込み私のすぐそばまで移動してくる。その後を追うようにベッドに潜り込んだリーリカ様もエリス様にぴったりと寄り添ううと、丸まるように寝てしまったようだ。
一体どうしたらいいのだろう? 既にエリス様も目を瞑っており、この状態でベッドから抜け出すのは憚られる気がするし、かといって再び眠りに落ちようにも羞恥と混乱で気持ちが昂ってしまったためにそれも叶わない。
目を閉じればすぐ近くから漂うエリス様の香りが、静かな息遣いが妙に気になって、かといって目を開ければ直ぐ近くに見える柔らかそうな唇に胸の中心が熱く焦がされるような気がして、私の眠れぬ長い夜は始まるのだった。




