【番外編】二人だけの結婚式
セルジュがいつも休むベッドは、非常に広い。枕を背中にセルジュが長い足を組んで座り、その隣でセルジュの方を向いてレイアが両足を外にしてぺたりと座り込んでいても、まだまだ充分に余裕があるくらいに広い。
レイアはいつになく難しい顔をしていた。二人の間には、陶器製の駒が並ぶチェス盤がある。
「……ちょっと待って」
前のめりになって、レイアは盤面を凝視していた。膝に肘をついて、両手で顔を包みこむようにしてレイアは、もう何度目か分からない「待って」を言った。
その度に黙って待ってくれたセルジュだが、レイアがしばらく悩んでようやく駒を動かした時、ふいに口を開いた。
「結婚式は、どうする」
「……え?」
「チェックメイトだ」
「えっ」
セルジュの言葉に驚いてレイアが一瞬顔を上げた隙に、セルジュは駒を動かしていた。
「……ずるい。話しかけるから」
「ずるくはない。随分前から詰みだった。君が見えていなかっただけだ」
「どこから?」
不満げな顔をしてレイアが言うと、セルジュは駒をさっと戻していく。双方の手を初手から正確に再現しながら教えられるが、レイアにはついていけない。
「……もういい、分からない」
「諦めが早いな」
「セルジュが強すぎて面白くない」
「明日は駒を落とす。クイーン落ちからだな」
「それだと私が勝てる?」
「勝てない」
「……ひどい」
「しばらくは練習だ」
はあ、と溜息をついて、レイアはベッドの上にぽすんと体を倒した。柔らかい羽枕の上に横顔を埋めてセルジュを見上げる。セルジュはチェス盤をサイドテーブルに移動させていた。
「……結婚式って言った?」
「聞こえてなかったのか」
「聞こえてた。でも、もう結婚してから一年経つよ」
「二人で挙げるなら、いつだろうと誰にも影響はない。前に君は、すれば良かったと言っていただろう」
横になったレイアの隣で、セルジュはレイアを見下ろしている。セルジュが言うのは、レイアの姉のジュリエットの結婚式で、レイアがぽつりと漏らしたことだ。あの時もセルジュは、レイアがしたいなら、二人でしてもいいと言ってくれたのだ。レイアは断ったけれど、本心から断りたいわけではなかったのだと、今のセルジュは理解してくれているのだろう。
「……セルジュは、したい? 私はセルジュがしたいなら、したいよ」
じっと見つめれば、セルジュはわずかに眉を寄せた。それから一つ息をはいてから、横になっていたレイアの肩をベッドに押し付けてその上に覆いかぶさってきた。驚くレイアの唇を一度奪ってから、顔を離した。
「無自覚に煽るな」
「……煽ってない」
目の前で熱っぽい視線を向けてくるセルジュに、レイアの心臓が早鐘のように打つ。
「君が花嫁衣装を着ているところを、見たい」
素直にそう言われてしまい、レイアは頬が赤くなるのが自分でも分かった。
レイアの反応に満足そうに、セルジュは小さく口元に笑みを浮かべた。
「ルセルダに別荘がある。海が見えて、静かで景色がいい。しばらく休みをとって、行こう。式はそこで挙げたらいい」
「……いいの?」
「君が嫌じゃないのなら」
「嫌なわけない。行きたい」
そう答えるとセルジュは、目がくらむような深い口づけをくれた。
◇ ◇ ◇
聖リティリア王国南部の都市ルセルダは、穏やかな内海に面した美しい街である。高台にあるフランクール家の別荘からは、ゆるやかな曲線を描く海岸線が一望できた。くっきりと青い水平線と澄んだ空が接するところの淡い色は、セルジュの瞳と同じ美しさだとレイアは思った。
セルジュとレイアの予定を調整して、急用が入るようなことがなければ、ここで十日を過ごす予定にしている。ルセルダに到着した翌日、レイアはルセルダ聖堂にセルジュと向かった。聖女として、聖堂で結婚の宣誓をしたいというレイアの希望を、セルジュは了承してくれた。
聖堂の控室で、レイアは王都で用意した純白のウェディングドレスに着替えた。草花をモチーフにした最高級のレースでつくられたドレスのデザインはあくまでシンプルで、シルエットが細くストレートなものにした。髪は丁寧に編み込み、結い上げて、柔らかいヴェールをつけてもらった。
「おかしくない?」
控室から出て介添人の手を離れてセルジュの前に立つと、急に不安になってレイアは聞いた。ただでさえドレスは着慣れていない。
「似合ってる」
細身の白いタキシードを爽やかに着こなして、セルジュは優しくほほえむ。花のように美しいセルジュの表情に、レイアの胸は喜びで満たされていく。
それからセルジュの腕に、レイアが手を滑り込ませると、セルジュは聖堂の最奥へとゆっくり連れて行ってくれた。
祭壇の前では、立会をしてくれるルセルダの聖女がほほえんでいた。宣誓台の上には、一年前に二人がサインをした結婚宣誓書がある。
ルセルダの聖女が宣誓書を確認し、二人の誓いの証人となり、最後に祝福を与えてくれた。
それから二人は別荘に戻り、花婿と花嫁の姿のまま、二階のバルコニーで美しい海を眺めながら、ゆっくりとした時間を過ごしていた。
二人並んで広いソファにくつろいで、レイアの好きな発泡性ワインを楽しんでいる。レイアは片方の手にグラスを持ち、反対の手には、革の証書ファイルに入れた結婚宣誓書を持っていた。
「雑だよね。セルジュの字にしては」
一年前。当時のセルジュにとっては、この結婚は不本意なものだった。彼がサインをする時の様子がありありと目に浮かんで、レイアは、ふふっと笑った。
すぐ隣でワインを飲んでいたセルジュは、目の前のガラステーブルにグラスを置いた。それからレイアをじっと見つめてくる。
「……書き直そうかとも思ったが、やめた。書き直したからといって、過去は消せるものじゃない」
真面目な様子のセルジュに、レイアもグラスを置き、革ファイルも閉じてからテーブルに戻すと、小首を傾げた。
「悪かった。はじめて会った時、それからしばらく、君に礼を欠いた態度を取ったこと」
真摯なまなざしを向けられてレイアは少し驚き、それからゆっくりとほほえんだ。
「いいよ、全然気にしてない」
それはレイアの本心だった。何しろレイアは、セルジュが生きているだけで幸せだったのだ。態度が悪いくらいのことは、まったく気にならなかった。
「それに私も、色々嘘をついていたし」
そう続けると、セルジュは少し困ったような顔をして、レイアの頬にそっと手を伸ばした。
「君の『大丈夫』を、まだ警戒してる」
「……もう無理はしないから」
「そうしてくれ」
レイアの頬を優しく撫でて、セルジュは続ける。
「……テオフィルには、悪いことをしたな」
「今日、呼ばなかったこと?」
「ああ」
レイアとセルジュが一年遅れの結婚式を挙げると聞いて、レイアの花嫁姿が見たいからとテオフィルが一緒に行きたがった。だがそれを、セルジュが『悪いが二人で行く』ときっぱりと断ったのだ。クィンは呆れた顔をしてテオフィルに『少しは遠慮しろ』と言っていた。
「でも結局、テオはこっちに遊びに来ることになったし、大丈夫じゃないかな?」
ひどくがっかりした顔をしたテオフィルを見て、結局はセルジュも可哀想に思ったのだろう。結婚式の日以降であれば、いつでも遊びに来て構わないと言った。
「……今日くらい、君を俺だけのものにしたかった」
セルジュのレイアを見るまなざしは、甘えるような、請うようなものだった。レイアの胸に、苦しいくらいの愛情が込み上げる。レイアは頬にあるセルジュの手に、自分の手を重ねた。
「テオがこっちに来て、もしもこの格好が見たいって言ったら、もう一度着るつもりだったけど、やめた方がいい? 着るのは今日、セルジュの前でだけ。……でもそれじゃ、やっぱりテオが可哀想かな」
どうしたら良いのかと本気でレイアが迷ったら、セルジュは口元に小さく笑みを浮かべる。
「着てみせるのは、別にいい」
「……そう?」
「脱がせるのは、俺だけだから」
セルジュのほほえみが深く艶やかなものに変わって、レイアは顔を赤くする。
「……酔ってる? そんなに飲んでないよね?」
答える代わりにセルジュは、もう一方の手でレイアの腰を抱いて自分に引き寄せ、唇を重ねていた。
ゆっくりと唇が離れた時、セルジュはレイアの瞳をのぞきこんできた。レイアはセルジュの薄い金色の髪に手を伸ばすと、愛おしげに撫でながら言った。
「私の心は、ずっとセルジュだけのものだよ」
「……心だけじゃ、足りない」
せつないまなざしで訴えられた。レイアは頬を赤らめたまま、困ったように小さく笑う。
「そんなに欲張りだったの?」
「君がそうさせた。……君の全てが欲しい」
「……あげるよ。全部、セルジュにあげる」
愛しくて泣きたい気持ちを堪えてそう答えたら、きつく抱きしめられ、情熱的に口づけをされた。レイアの思考は時折漏れる吐息と一緒にセルジュに奪われていく。重なった唇が、抱き合った体が、二人の心がひとつに溶けあっていくような錯覚に、レイアは全身から力が抜けたようになってしまい、夢中でセルジュの背中に腕を回していた。
愛する幸せが、生きる喜びが、レイアを強くしていく。
書類上の結婚から一年が過ぎ、今日の結婚式で二人は愛を誓い合った。ずっと昔からセルジュに愛は捧げていたけれど、今日この日、互いに見つめ合い、両手を取り合って誓った言葉を、レイアは永遠に忘れないよう魂に刻み込んだ。
『幸せな時も、困難な時も、互いに支え、理解し、いかなる時も愛をもって、ともに生きることを誓います』




