終わりの時 04
オルレーズの丘は、ツィーレで一番高い場所にあった。良く晴れた日には、街並みを一望できる美しい草原だ。
その場所に、かつての肉体の死とともに闇を封じたのはレイアの落ち度だった。細かな雨に優しく打たれながらレイアは、かつて命を落とした場所に立っていた。離れた場所ではクィンとテオフィルが、必死に声を上げている。
「レイア様、どうかおやめください!」
「待って、レイア! お願いだから! 君がいなくなったら、僕は、僕達はどうしたらいいんだ!」
「…………」
彼等が近づくことができないよう、闇を少し解放した。自らの中に在る闇を、レイアは操ることもできた。現代では知られていなかったが、かつて魔女が恐れられた所以でもある。
二百年前、王国に溜まりに溜まった闇をこの体に取り込んだ。あの時に闇を消滅させるべきだったのに、かつてのレイアはそれができなかった。
ひどい時代だった。戦争に戦争が重なって、国が倒れかけていた。
魔女の力を知った者達が、その力を戦争に使えと言う。レイアは拒否した。レイアの側でレイアを守る騎士も、それは同じだった。薄い金色の髪と、澄んだ空色の瞳をした人――かつてのセルジュ。
誰もが必死だった。国土と民を守るために、致し方ないところはあったのかもしれない。だがその思いが行き過ぎて、セルジュは殺された。庇うように、レイアをその胸に抱いたまま息絶えたセルジュに、レイアの心は折れた。
怒りと悲しみに耐えられなくて、レイアは闇の暴走を許してしまった。レイアから噴き出した大量の闇が、目の前で大勢の人の命を奪っていく。喰い破られ、心も体もずたずたになり、レイアはもう一度闇を取り込むことができなかった。自らとともに消滅させる機会を永遠に失い、最後の力を振り絞って、封印するのが精一杯だった。
闇は散り、国内の数か所で眠った。その後のことは知らないが、再び目覚めると、今も聖リティリア王国は存在し、かつてと比べて考えられないくらい平和で、魔女の存在も大聖堂から厳格に守られていた。レイアが魂をすり減らして生きていたことが信じられないくらい、良い時代になっていた。
もう失敗はしない。時間をかけて、散り散りになった闇を、もう一度この体に閉じ込めた。二度と外に出すつもりはなかった。封印が弱まる時になって、もう一度記憶とともにレイアが生を受けたのには、きっと意味がある。
セルジュとの再会は望んでいなかった。だが十歳になって王立学校に入ると、すぐにセルジュを見つけてしまった。色々な過去の記憶が胸にせまって、涙が出た。
レイアはセルジュの姿を見るだけで満足していた。二度と巻き込むまいと、固く誓っていた。セルジュには、自分と関わらずに幸せになって欲しいと、何度も祈った。
それなのに、急展開で夫婦になることになってしまう。フランクール家とアシュレ家は、レイアの力を深く知っているわけではない。互いの利害が一致した、単なる偶然だ。
理由をつけて断ることもできた。だが結局、レイアは従った。怖くもあったが、結局のところ、それ以上にレイアは嬉しかったのだ。もう一度セルジュを見つけて、十年も我慢したのに、最後のところで気持ちを抑えることができなかった。
それでも、ロザリーを想うセルジュを見ていたから、レイアを好きになることはないと考えていた。セルジュの立場なら、一度の離婚くらいで傷はつかないと思っていたし、一年だけ思い出を作れば、あとは悲しまずに上手に別れるつもりだった。
レイアは何も分かっていなかった。一年にも満たない短い期間だとしても、過ごした時間が愛情を深くした。上手に別れることなんてできなかった。
きっとセルジュを傷つけた。分かりにくいだけで、結局セルジュは情の深い人なのだ。知っていたはずなのに。馬鹿な自分が、情けなくて腹立たしい。
でもそれもこれで終わりだ。この闇を取り込んで、消滅させる。それでセルジュが、みんなが安心して暮らせるならそれでいい。
長く留まっていたこの大きな闇を消滅させれば、向こう数百年は、王国全体の闇の発生も減るはずだ。聖女達の澱みが溜まり過ぎることもないだろう。次の魔女の出現まで、しばらくは大丈夫なはずだ。
レイアの立つなだらかな丘の上では、地面から闇が絶え間なく漏れ出している。もう限界だ。
レイアは心を決め、墓標も何もない、その場所で手をかざした。
「Es ist gut, es ist gut mit meiner Seele.」
光の魔法陣が現れ、同時に地面がひび割れていく。一気に噴出する闇を、その光だけでは吸収できない。
「Komm, du süße Todesstunde, Herzlich tut mich verlangen Nach einem segeln End, Weil ich hie bin umfangen Mit Trübsal und Elend.」
さらに魔法陣が生まれ、闇を飲み込んでいく。洪水のような光は、渦となってレイアの中に戻っていく。終わってしまうと、そこだけ雲が晴れたかのように、冷涼な空気が漂った。
一瞬気が遠くなりかけて、レイアは膝をつく。
「……うるさい。お前は出さないと言っただろ」
内に在るものにつぶやいて、レイアは仕上げにかかろうともう一度立ちあがった。
完全になったそれが、暴れ出そうとしている。また気を失ってしまう前に、片をつけてしまいたかった。大聖堂の時より、もっと強く、レイアは自分を制御する。クィンもテオフィルもいる。失敗はできなかった。
「レイア様!」
「レイア、待って! 話もできないなんて、ひどいよ!」
「……テオ。クィン」
最後にレイアは二人の方を向いた。怒ったように叫んだテオフィルは泣いていた。クィンは歯を食いしばってこらえているようだった。
「……黙っていて、ごめん。でも、他の誰にもできないことなんだ。二人とも、今まで側にいてくれてありがとう」
距離があるから、囁くようなレイアの声は、きっと届かないだろう。
二人は魔女としてのレイアの存在を理解していたが、その結果が、こんなことになるとは想像もしていなかっただろう。知っていればきっと、二人は何としてでもレイアを止めたに違いない。
「レイア!」
「レイア様!」
「…………」
胸が痛くて、レイアは顔を逸らして目を閉じた。知らずにいて欲しかった。彼等を悲しませたくはなかった。一人で終わらせたかった。それもこれも、二人をここに寄越したグレースのせいだ。
少し恨みがましく思いながらも、レイアはそれがグレースの愛だと知っている。だから心の中で、謝ることしかできない。
ごめんなさい、とつぶやきかけた時、聞こえるはずのない声が聞こえた。
「レイア!」
目を開ける。信じられない思いでそちらを振り向けば、セルジュだった。側にはグレースもいる。
だが二人も、テオフィル達と同じ場所で足止めを食う。そこから先には進めない。レイアは闇の瘴気を濃くした。
戸惑ったセルジュは、しかし次の瞬間には唇を引き結んで、決然とした足どりで歩きだしていた。
足元に、体に、闇をまとわりつかせながら、セルジュが突き進んでくる。驚愕してレイアは、声を上げた。
「セルジュ、駄目だ。呑み込まれる!」
なぜそんなことができるのか、理解できなかった。グレースが守りの加護を与えた? だとしても、こんなことができるはずがない。クィンとテオフィルも、信じられない表情でセルジュを見つめている。
その長い足であっという間に距離を詰めて、セルジュはレイアの前に立っていた。
「……セルジュ、何で」
掠れた声が漏れる。セルジュの美しい頬が、闇に浸食されようとしていた。慌ててレイアは手を伸ばして、祓おうとする。
セルジュはレイアの手首を掴んでそれを止めた。
「君を止めにきた。話は全て、大聖女に聞いた」
「全て……?」
「かつての君のことも。全て」
「…………」
「闇は、滅びを選ばずとも、君の中に留めておけるはずだと」
見つめ合ってレイアは、首を横に振った。
「それじゃいつ破れるか、分からない」
レイアは悲痛な声で訴える。
「絶対に嫌だ。前は失敗した。それで何人も、何十人も死んだ!」
「君は失敗しない」
「そんなこと分からない。無責任なことはできない」
「責任なら、俺が取る」
セルジュはレイアの手を取ったまま、狼狽するレイアを静かに見下ろしていた。
「君が闇を抑えられなくなった時は、俺が君を殺す。それから俺も死ぬ。それで終わりだ」
「何を言って……」
まなざしが、セルジュの本気を伝えていた。レイアは膝の力が抜け、へなへなとそこに座り込む。
セルジュはレイアの前にひざまずき、掴んでいたレイアの手首を解放した。レイアはそのまま地面に手をつく。セルジュはそこに自分の手を重ねた。
「……セルジュが死ぬのは嫌だ」
「では最後の時まで闇を抑えろ」
「簡単に言うね……」
「簡単に言ってるわけじゃない。責任を取ると言ったはずだ。最後の時まで俺が見守る。何があっても君を一人にはしない」
レイアはよろよろと顔を上げた。セルジュの澄んだ空色の瞳と目が合う。胸にせまるくらい、綺麗だった。そうだ、かつてもこうやってレイアを見つめ、セルジュは言ったのだ。君を守ると。絶対に離れないと。それで彼は命を落とした。
「セルジュを巻き込みたくない。平穏に、幸せに暮らして欲しい。前はセルジュを失った。それだけはもう、耐えられない。お願いだから――」
「過去はどうでもいい。君は今、目の前にいる俺が見えないのか」
レイアは目を見開いた。雨に濡れた頬が、また次々に濡れていく。あふれるものを、こらえることができなかった。
「……見えるよ」
セルジュのまなざしが熱を帯びる。彼は苦しそうに、レイアに訴えかける。
「君に記憶があっても、俺にはない。過去の君は知らない。だから今の君が、俺にとってはたった一人の存在だ。君を失いたくない。君を失って、幸せになれるはずがない」
そう言って、セルジュはレイアを引き寄せていた。
体はすっかり冷たくなっている。なのに、レイアを包むぬくもりは、こんなにもあたたかい。かつても、彼はこうしてレイアを守った。時折夢に見ることもあった、あの日の光景。こうして胸にレイアを抱いたまま、セルジュが動かなくなった。
でも今は。吐息が、鼓動が、確かに聞こえていた。生きている。その熱が、レイアの頑なな思いを溶かしていく。
セルジュを蝕もうとしていた闇が、進路を阻んでいた瘴気が、消えていく。暴れかけていた内にあるものも、すっかり抑えこめていた。セルジュの肩越しに見える空では、雲の隙間から光が見えた。降り続いていた雨が上がる。
放心したように言葉を失っていたレイアはやがて、小さな声でつぶやいていた。
「……少し、疲れた」
レイアをしっかり抱きしめたままのセルジュが、耳元で囁く。
「疲れたなら眠ればいい。ちゃんと連れて帰る」
「……どこへ?」
「離婚はしない。君の戻る場所は、俺だ」
「…………」
「君が好きだ。それがようやく分かった。もう離さない」
「……セルジュ」
レイアは濡れた瞳をゆっくりと閉じた。長く心の奥底に封印し、決して言うつもりのなかった言葉が、涙とともに自然とこぼれていた。
「私も好きだよ。ずっとずっと昔から」
そしてレイアは、意識を手放した。




