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終わりの時 03

 雨は静かな小雨に変わっていた。先程までの雨のせいで足元は悪かったが、大聖堂の馬車は、グレースの指示した場所へと急いでいた。

 セルジュと向かい合って座ったグレースが、目的の場所をセルジュに教えた。


「オルレーズの丘へ向かいます。クィンとテオフィルを先に行かせています」


 丁寧に編み込んだ髪の毛はほとんど真っ白で、顔の皺は深い。だがグレースのその藍色の瞳には、年齢を感じさせない力強い輝きがあった。


「オルレーズ……」


 セルジュは思い出す。事故を起こした馬車が、オルレーズ方面から来たと言っていた。それをレイアが確かめていた。


「そこはかつて、レイアが命を落とした場所です」

「……今、何と仰いましたか」


 にわかには信じられない言葉を耳にして、セルジュは眉をひそめて聞き返した。

 グレースは真っすぐにセルジュを見つめていた。冗談で言われているのではないことくらい、すぐに理解した。


「レイアがこの国で今、唯一の魔女だということは、もう知っていますね」


 セルジュがうなずくと、グレースは続ける。


「魔女は、世界がその力を必要とした時、眠りから目覚めると言われています。その才を、記憶を、引き継ぎながら巡っているのです。レイアには、二百年前の記憶があるそうです」

「…………」


 正直、セルジュは混乱していた。こういう状況でなければ、とても信じられなかっただろう。信じようとも思わなかったかもしれない。


「レイアは二百年前、王国に災厄をもたらす大きな闇を封じたそうです。その闇を、もう一度自らに取り込もうとしています。時が経って、封印が解けようとしているからです。大聖堂の闇も、もともとはレイアが封じていたものです」


 セルジュは確かに見ていた。あの事件の際、聖女の像に足元からひびが入り、どす黒い闇が噴き出したのを。そのことを尋ねても、レイアにはぐらかされたのだ。


「封印が弱まっていたところを、あのような事件がとどめとなりました。闇が生まれ、それに呼応して封印が破れてしまったのです。レイアが取り込み、事なきを得ましたが」

「……闇を取り込んで、彼女は、どうなるのです」


 喉の奥が、ひりひりと痛んだ。告げられる事実に、眩暈を覚えながらもセルジュは、懸命にそれを理解しようと努めた。

 グレースは一度目を閉じて大きく息を吐いてから、再びまぶたを開いてセルジュを見つめた。


「魔女だけが知る滅びの言詞があります」

「……滅び?」


 不穏な言葉に、寒気がした。


「レイアは闇を取り込み、自らと共に消滅させる気です」


 セルジュの頭の中は真っ白になっていた。すぐにレイアの顔が浮かぶ。大丈夫だと彼女は言った。

 息苦しいほどに心臓が高鳴って、握りしめていたセルジュの拳が震えた。衝撃を受けて、次に芽生えた感情はむしろ怒りだった。


「……何が大丈夫だ。ふざけるな」


 苦しげな声を漏らしたセルジュを、グレースが痛ましげに見つめていた。


「アシュレ家から舞い込んだあなたとの結婚を、レイアは迷っていました。いずれ別れることになると、分かっているのにと」

「…………」

「その背中を押したのは私です。あなたがレイアの枷となってくれるのを期待していました。それにレイアも、自分の気持ちには抗えなかったのでしょう。あなたとはかつて、共に過ごしたと言っていました」


 セルジュの思考が停止した。


「……今、何と――」

「かつて、二百年前。やはりあの子はレイアで、あなたはセルジュだったそうです。目に見えぬ導きで、そうなるのでしょう。あなたとレイアは、愛し合っていたそうです」


 セルジュはいよいよ言葉を失った。何を言われているのか分からないと、小さく首を横に振る。


「覚えていなくて当然です。魂の記憶を、覚えている魔女が特別なのです。レイアは、かつてのあなたが、自分を守って命を落としたと言っていました。もう二度とあなたを失いたくない。あなたに傷ついて欲しくない。だから今度は、自分の気持ちは告げないと。友人として、少し距離を置いてあなたを見守ることができたらそれでいいと。それが愛でないなら何だというのでしょう。レイアは二百年も前から、あなたのことを愛しているのですよ」


 眩暈がした。セルジュはきつく目を閉じ、肘を膝について、両手で頭を抱えた。柔らかくほほえむレイア。彼女の行動の全てがようやく腑に落ちる。何度も彼女は言った。セルジュのために祈ると。


「……自分の幸せを考えろと、言ったのに」


 セルジュの小さなつぶやきは、脳裏に浮かんだレイアの姿とともに淡く消えていった。


 心と体がしめつけられるような痛みに耐えて、やがてセルジュは顔を上げた。グレースの瞳を真っすぐに見据える。


「彼女を止めます。それでこの国に何かが起こるなら、全員で責任を取るべきだ。他人の闇を引き受けて、彼女一人が犠牲になるなんて間違ってる」


 胸に込み上げる激情を必死で抑えながら言ったセルジュに、グレースは同意するようにうなずいた。


「私は闇を消滅させるのではなく、他の方法を探して欲しいと思っています。もう一度封印ができれば一番なのでしょうが……」

「……問題があるのですか」

「かつてレイアが命を落としたのは、封印で力を使い果たしたからだそうです」

「…………」


 セルジュは唇を噛んだ。あまりにも無力だった。結局、彼女のために何もできないのかと思うと、心が焼けついてしまいそうだ。

 グレースもまた、容易に解決できない悩みに苦悶する様子で、深い溜息をついた。


「レイアは同意してくれませんでしたが、今後の可能性を信じて、私はレイアの中に闇を留めておいて欲しいのです。大きな負担を強いることにはなりますが、それでもあの子に生きていてもらいたいのです。そしていずれ条件を整えて、封印できれば……」

「……それができるのですか」


 示唆された可能性に、セルジュの心が息を吹き返す。


「できると信じています。ですが、レイアは一度失敗したと言っていました」

「……失敗?」

「内にある闇の暴走を許したそうです。あの子はそれを恐れています」


 グレースは、セルジュにすがるようなまなざしを向けた。


「それでも、あの子を止めてくれますか」


 心は決まっていた。セルジュは言葉短かにはっきりと答えた。


「必ず止めます」


 しばらくセルジュの瞳を見つめていたグレースは、やがてゆっくりとほほえんだ。嬉しそうに細くなった両目には、光るものがみえた。


「魔女の力には及びませんが、私にもできることがあります。一時の間ですが、私の力を与えます。闇を抑え、あなたを守ってくれるように」


 そう言うとグレースはまぶたを閉じ、片手をセルジュの目の前にかざした。


「Führe uns nicht in Versuchung, sondern erlöse uns vom Bösen.」


 あたたかい光がセルジュを包み込んだ。やがて目には見えなくなったけれど、確かにセルジュを守ってくれているのだと心が理解した。加護を与えてくれた聖リティリア王国の大聖女に、セルジュは敬意を払って頭を下げた。


「レイアを、お願いします」


 祈るように言ったグレースに、顔を上げたセルジュは、しっかりとうなずいた。

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