王国の魔女 01
「仕事でね、急だけどこれからツィーレを離れることになった」
セルジュは、大聖堂から戻ってきたレイアに突然そう告げられた。レイアの隣には表情を固くしたテオフィルがいる。
「テオが同行してくれるんだけど……」
「北のサンステラに向かいます。サンステラの聖女が、重篤な状態であると」
テオフィルが真っすぐにセルジュを見つめてくる。聞き覚えのある都市の名に、セルジュの表情が強張る。
「……サンステラ?」
つぶやいたセルジュの肌が粟立った。テオフィルは淡々と述べた。
「聖女ロザリー・ペルティエです」
セルジュは心臓が止まりそうな衝撃を受け、その瞬間、すべての思考が停止していた。
「……良かったら、一緒に行こう。セルジュ」
だからレイアがそう言ったとき、彼女がどんな顔をしているのか、はっきり認識することができなかった。
サンステラは、聖リティリア王国の最北端に位置していた。海に面したこの町は、隣国との交易のために多くの船が往来しており、王国にとっても重要な貿易都市である。
王都ツィーレからは、馬車でちょうど半日掛かる。街道を北に進み、途中馬を休ませる時間を設けながら、夜になってサンステラに到着した。
馬車から降りると、厳しい寒さが頬を指す。ツィーレでは今年まだ観測されていない雪が、ここでは静かに降り続いていた。
三人に、道中ほとんど会話はなかった。テオフィルが無言でペルティエ家の門をたたく。
屋敷の中へ案内された三人を玄関ホールで出迎えた男が、一番後方にいたセルジュを見て、泣き出しそうな笑顔をつくった。
「久しぶりだな、セルジュ」
「……ああ」
男の名は、ラウル・ペルティエといった。父親から領地の一つを引き継いで、ツィーレからサンステラへと居を移していた。王立学校で共に学んだ時、ラウルはセルジュの親友であったといえた。
太陽が燃えているような赤毛と、真夏の海のような青い瞳をしていたラウルが、今は弱々しく見える。それを見れば、ロザリーがどういう容体か、想像することができた。
ラウルはすぐにレイアに視線を移し、緊張した面持ちで頭を下げた。
「レイア様、大聖堂からわざわざお越しくださいまして、ありがとうございます」
「挨拶は後で。早くロザリーのところへ」
「はい」
その後ろに続くセルジュの胸の鼓動が、次第にその動きを増していた。はじめにテオフィルが言った「重篤」という言葉が重くのしかかる。ラウルの表情が、さらに不安感を煽っていた。
通された部屋の奥で、かつて恋をした懐かしい人が、息も絶え絶えにベッドに横たわっていた。
ラウルが連れて入ってきた三人を見て、彼女は儚げな笑みをつくる。明るい茶色の巻き毛も、鮮やかな緑色をした大きな瞳も、あれだけ輝きを放っていたのに、今では光を失ったかのようだった。
「セルジュ……」
懐かしい声に、セルジュは無言で前に進み出る。ベッドサイドに近づいて顔を見ると、ロザリーは少し目を潤ませた。
その顔を見て、セルジュの胸の鼓動が少し落ち着いた。意識があり、会話もできる。その事実が、セルジュを冷静にした。
「結婚、したんだってね。おめでとう」
「……ああ」
「お祝いに行けなくて、ごめんね」
「式は挙げなかった」
「そうなの……」
ロザリーはぜいぜいと苦しそうに息を乱す。その胸の動きに合わせるように、彼女の体から、黒い煙のようなものが立ち上った。もう何度も目にした、これは闇だ。
セルジュが息を呑んだのと同時に、レイアがセルジュの前に割って入った。
「セルジュ、ごめん。どいて」
セルジュを下がらせて、レイアはロザリーの真横に立った。ロザリーがゆるゆるとレイアを見上げる。
「……レイア様。大聖堂にいたころ、私、何度か、お話をしたことがあります」
「うん、覚えてるよ。ロザリー」
「でも、当時は何も知らなくて……。レイア様は聖女としても、雲の上の存在でしたけど……」
「そんなことはないよ。でも、こういう状況にならないと、知らされないからね。一生知らない方が、幸せだったかも」
ロザリーは弱々しく首を横に振った。
「こんな状況ですが、レイア様にまたお会いできて、嬉しいです……」
「ありがとう」
レイアはほほえみ、その手でロザリーの前髪をかきあげてから、その様子を確かめた。目を閉じたロザリーが呼吸を乱すたび、闇がじわじわと彼女の周りから漏れ出していく。
「ロザリー、頑張りすぎたね。澱みが溜まり過ぎてる。今、楽にしてあげる」
と言ってレイアは、ロザリーの額に手をかざしたまま、セルジュには聞き取れない美しい調べを囁いた。
「Es ist gut, es ist gut mit meiner Seele.」
ロザリーの頭上に発生した光り輝く魔法陣が、ロザリーの全身を包み込む。それに呼応するように、彼女の体から一気にあふれ出した闇を、そのまま飲み込んでいった。
光はレイアの手の内に戻っていく。それからレイアは、ほっとしたように小さな息をついた。
「終わり。これからは無理しすぎたら、駄目だよ」
レイアの優しい声に、ロザリーは大きな目をぱっちりと開いた。と同時に、勢いよく上体を起こす。
先程までは色褪せて見えた彼女の色彩が、あっという間に取り戻されていく。ロザリーは、信じられないように自分の体を確かめて、それから興奮気味にレイアの腕をとった。
「レイア様、私、決して忘れません。レイア様のお力を」
「うん、忘れないで。ただし私の力じゃなくて、無理しちゃ駄目だってことをね。これからは一人で頑張りすぎないで、他の聖女と協力すること」
「はい、必ず覚えておきます」
「ロザリー!」
ラウルの声にはっとして、ロザリーはレイアの手を離し、ベッドから飛び出してラウルに抱きついた。
「ラウル、心配かけてごめんなさい」
「良かった、君が死んでしまうかと思った。良かった……」
固く抱き合って、最後の方は言葉を詰まらせる二人に、大きな咳払いをしたのは、テオフィルだった。
「ペルティエ夫妻、分かっているとは思いますが、今回のことは他言無用。いいですね」
慌てて体を離してテオフィルの方を向いた二人は、神妙な顔つきでうなずいた。
「迂闊な発言をすれば、大聖堂から専門の騎士が派遣されます」
穏やかでない発言に、ラウルが大きく首を横に振った。
「命を救っていただいた恩を仇で返すようなことは、決していたしません」
「結構。それでは我々はこれで」
「お待ちください。もう、夜も遅いです。どうか今日はこちらにお泊りください」
「それには及びません。サンステラ聖堂に部屋を用意してもらっています」
「そうおっしゃらずに、どうかこちらに」
言いながらラウルは、セルジュにまなざしを向けた。
「セルジュ、君ともゆっくり話がしたいんだ」
「……セルジュだけでも、こちらに泊まらせてもらえば?」
レイアはそう言ったが、セルジュはラウルに向かってはっきりした口調で答えた。
「いや、予定通りサンステラ聖堂に行く。ラウル、君はロザリーをゆっくり休ませてくれ」
変更はしない、という意思は、まなざしから伝わったのだろうか。ラウルは仕方がなさそうにうなずき、三人はそのまま屋敷を後にすることになった。




