聖女レイア 01
『さようなら、ロザリー。君の幸せを願っている』
彼女に贈った最後の言葉を、セルジュ・フランクールは何度も思い出す。その度に、体の奥底で息を潜めている痛みが、喉元までこみ上げてくるようだった。
かつて自分が、これ程までに強く、身を焦がすような恋をするとは思っていなかった。ロザリーのためならば、自分の全てをささげても良いと本気で思っていた。
一緒にいたいと心から願った。だが彼女は他の男を愛していたし、その気持ちが揺らぐことはあっても、真にセルジュのものになることはなかった。
最後にはセルジュは、彼女の幸せを願って自らで別れを選んだ。セルジュは、この聖リティリア王国の王族公爵家であるフランクール家の嫡男である。その立場上、いつまでも彼女に気持ちを抱いていては、いつか彼女を不幸にしてしまうかもしれなかったからだ。
深い孤独に苛まれるセルジュに、ゆっくりと傷を癒やす時間は与えられなかった。
フランクール家は、今年ニ十歳になったセルジュを、ほとんど強制的に結婚させた。これまでは断固として拒否していたセルジュも、ロザリーとの別れで心を失いかけ、抵抗する気力をなくしてしまっていた。
セルジュが妻として迎えることになったのが、侯爵位を持つアシュレ家の令嬢、レイアだった。
レイア・アシュレは、この聖リティリア王国の象徴とも言って良い、「聖女」の一人である。聖女には、王国に溜まる闇を祓う力があった。
フランクール家には聖女が少ない。だから聖女であるレイアが必要とされた。例えセルジュを犠牲にしても、その力を一族のものとすることを望んだのだ。
ロザリーも、聖女の一人であった。家柄はアシュレ家に比べて圧倒的に劣るとはいえ。もしも彼女にセルジュとともに生きる気持ちがあったのだとしたら、何としてでもセルジュは、一族を納得させただろう。だが、現実はそうではなかった。
セルジュの元へレイアがやってきた時、彼女は柔らかくほほえんでいた。
レイアは、派手ではないがすっきりと整った顔立ちをしていて、長く真っすぐな黒い髪と、どこまでも深く艶やかな黒い瞳が印象的であった。
彼女は「侯爵家の令嬢」から想起される、たくさんのレースを使った流行のドレス姿ではなく、かっちりとした仕立ての良いパンツスタイルだった。白い生地で作られた上着の襟周りや折カフス、ポケットの縁などには、銀色のパイピングが付けられている。一目で分かる、聖リティリア王国騎士団の騎士の制服だ。騎士団は大聖堂に附設され、確かに関わりは深いが、聖女には騎士の制服とは違ったものが用意されているはずだ。
「はじめまして、セルジュ」
既に人払いがされ、二人きりになった部屋で、レイアはその手を差し出した。
セルジュはソファから立ちあがろうともせずに、無言で顔を背けた。面識もなく、結婚式で愛を誓い合うこともなく、書類の上で突然妻になった相手に、興味など微塵も持てなかった。良い関係を築く気もなかったし、失礼だと罵しられても構わなかった。何もかもが心底どうでも良かった。
レイアが手を下ろし、くすりと笑う気配がした。
「セルジュ、あなたは知らないかもしれないけど、私はあなたと同じ年で、同じ王立学校に通っていたんだ」
「…………」
「女生徒達はいつもあなたのうわさをしていたよ。絵画の中の天使のように美しいって」
「…………」
セルジュは、王族に多い薄い金色の髪に、澄んだ空色の瞳をしていた。その色をのぞきこんで、『本当にきれいね』とほほえんだロザリーの顔がちらついて、セルジュは眉間の皺を深くしていた。
「だけど、他人に対してひどく壁を作る、とも聞いたよ。本当だったのかな」
「…………」
「とにかく、あなたにとって私は歓迎できない存在みたいだ。でもひとつ、良いことがあるよ」
「…………」
「今から約一年後に、私から離婚を申し出る」
セルジュは小さく目を見開き、思わず正面を向いた。目の前でレイアは、先ほどと変わらずに涼しい顔をしていた。
「その後、あなたは自由になる。だから一年だけ、我慢してくれないかな」
「……どういうことだ」
セルジュは、低く疑うような声を出した。
その時ふいに、レイアがその手を、セルジュの顔の真横に伸ばした。
セルジュの耳元で、レイアが何かを握りつぶす。ゆっくりと開かれたレイアの手のひらの上で、黒い煙のようなものが消えていくのが見えた。
「気をつけて。闇はいつも付け入る隙を探してる」
レイアのその言葉で、セルジュは聖女の力を思い出す。セルジュには感じることができなかった小さな闇までも、レイアには見えているというのか。
レイアはセルジュのささやかな驚きには気が付かず、手を下ろして話に戻った。
「あなたにとっても、私にとっても、これはお互いの家のための結婚だと思う。今、それに逆らう気はないんだけど、私にはやらなくちゃいけないことがあって、準備が整ったら、そっちに集中したいと思ってる。その時にはこの家を出ていくよ」
具体的なことは何一つ分からなかったが、セルジュにとっては彼女の目的などどうでも良いことだ。重要なのは、そこではない。
「アシュレ家が、それを許すのか」
その疑問にレイアは、にっこりとしてうなずいた。
「多分ね」
「…………」
と言いながらも、レイアの表情は、そうなることを確信しているようでもあった。
どうするべきかとセルジュは考えかけて、やめた。どちらにせよ、選択肢は残されていない。
「勝手にしろ」
どうでも良さげにつぶやいて、セルジュは再び顔を逸らした。
「では、そうする。結婚式は、必要?」
「…………」
「分かった。必要ないね。今日からこの家に住むよ。これからよろしく、セルジュ」
爽やかにそう告げて、レイアは部屋を去った。
セルジュは一人、ソファに背中を預けて小さな息をついた。
理解しがたい女だった。そう思った瞬間にはっとする。他人に対して何らかの感情を抱くのは、久しぶりだった。
セルジュは固く目を閉じて、芽生えかけた感情を忘れてしまうために、レイアの姿を頭の中から消し去った。




