65.菊花賞
「いくら3000mと言えども、先頭を取らなければ話になりません! 普段より少し抑え目でも、必ず先頭は譲らないようにしましょう!」
林の的確な指示通り、俺は後方2番手から3馬身程度の差を取った。坂を登るのは体力がいるものだが、いつも行っていた坂路によって鍛えられた俺の脚が登りきれないわけない。そのまま第3コーナーを駆け抜けた。
「今日も逃げていますシンジスカイブルー。注目の人気馬、コガネスターロードとスーパーパケットはやはりシンガリ付近からのレースを選択しました。まだまだ勝負が動く予感はしません」
京都競馬場の厄介な所は、やはり坂だろう。菊花賞では2回通る事になるこの坂は、判断を間違えた馬を幾度となく潰してきたデンジャラスゾーンだ。セオリー通りならば……坂を降りきった直線から仕掛けるのがいいだろうか。
「2号! 今回のレース、仕掛けるポイントを間違えたら確実にやられる! しっかり連携を取って、合わせるところだけ集中だ! 気ぃ抜くなよ!」
俺は2号に心の中で伝えた。コガネスターロードとかいう危険分子がいる中で、ひとつも手を抜いていい場所なんてない。油断大敵だ。
「了解だ1号!」
俺たちはある程度のリードを保ちながら、1周目の直線へと入る。
「前半1周目を終えました。ここまで目立った動きはありません。ペースも平均的なタイムです。非常に安定したレースとなっています」
「私個人としては、早くシンジスカイブルーの差しきりと、コガネスターロードの末脚との対決が見たいところですがね。まぁまだ勝負を焦ることはないでしょう」
「野村さんが仰った通り、勝負は始まったばっかりです。ここからの展開に注目しましょう!」
正面スタンドへと近づく。瞬間、観客からの熱波が俺たちを襲った。本来なら集中していて感じる余裕なんてないが、この菊花賞は別だ。ファンの熱い心を、直で感じることが出来る。こんなにも沢山の人が、俺の三冠を期待し、俺に賭けてくれている。……応援されるって、やっぱりいいなぁ。
「シンジさん、聞こえますかこの声が! 全部、シンジさんを呼ぶ声ですよ! シンジさんはみんなの夢を乗せて走っているんです! これは負けられませんよ!」
「ああ、負けらんねぇ。ファンのためにも、調教師のためにも、自分のためにも。そして、おっちゃんのためにも!!」
俺は再び息を入れ直す。さぁ、もうひと踏ん張りだ。
「ふぅ、これでようやく向正面か」
2周目もいよいよ中盤、向正面へとたどり着く。やはり3000mはかなりクるものがある。いつもなら走り終わってるもんな。でも、まだ脚は残っている。この坂さえ登りきってしまえば、後はEasy Win だ。俺は覚悟を決め、坂へ向かう。
「さぁ、先頭シンジスカイブルーが坂へと向かいます。ここからレースが動くのかどうか!」
「遂に来ましたね、淀の坂が」
林が鞍上でそう呟いた。俺は無意識に前を向く。そこには、挑戦者を今か今かと待ち受ける怪物のような坂があった。
「ここはやっぱり……脱力走法か!」
この坂で無駄な体力を消費せず、かつスピードを落とさないようにするためには、やはりスターさんと練習を重ねた脱力走法に限る。これをチャレンジしてみよう。
呼吸を整え、頭をからっぽにする。そして、全身から力を抜かせる。弥生賞でもやった事だが、今回はそれの派生版。スピードよりも、スタミナセーブ重視だ!
身体の硬さ、重力の重さが一切無い。まるで平坦な道を通っているかのように、脚がスイスイ進んでいく。これは――勝った!
「シンジさん、今です!登ったことで生まれたこの下り坂で、真の力を解放してください!!!」
「ああ、分かってるぜ!」
俺の末脚を活かすためには、この坂で加速しながら2号の力を使う。これが最善策だ。
「1号、出番か!」
心の中の2号が嬉しそうに声をあげた。頼むぜ、お前にかかってるんだからな。
ふわり、身体を重力に任せて前へ向かせる。決して体重は重くないが、加速には十分だ。
風を切る感覚を確認した。これぐらいスピードが乗れば、2号の力も借りられるだろう。俺はそう判断し、脚のギアのリミッターを外し、フル回転させた。
「今だ! 2号!」
「任せろ!」
2号がそう言った瞬間、あの時と同じように心が熱くなった。俺と2号、2つの心が合わさるような不思議な感覚だ。これが、俺に力をもたらす。
「遂に動き出しましたシンジスカイブルー! 坂を起点に加速を開始! あのセントライトの再来です!スタミナ十分! このまま三冠を達成してしまうのか!」
脚が異次元の速さで進み続ける。自分の限界を乗り越えて、勝利のみ目指して駆け抜ける。そう、ここさえ勝てば、おっちゃんの借金は完済できるんだ。夢が、叶うんだ――
ドドドドド
「は?」
後方で、聞いたこともないような重く素早い音が聞こえた。パケットの音にしては音の感覚が短すぎる。音の力強さは、リュウオーのそれを超えていた。俺と同じ、いや、それ以上の脚。まさか――
「なんと、なんと! コガネスターロードがぐんぐんと上がって来ました! 信じられません! あのシンジについて行っています!その差は6、5、4馬身と、詰められ続けている!」
金色のオーラがここまで届いた。これはやはり、コガネスターロードだ。やっぱり、パケットの話は嘘じゃなかった。こいつは――俺と同じ力に目覚めている!
「さぁ、最後の直線だ!シンジとコガネの差はわずか3馬身!シンシが逃げ切るかコガネが差し切るか! 葦毛の雄王の三冠を、黄金色の刺客が夢と散らすのか!」
俺も負けじとギアを上げる。脚が壊れてもいい。だから、この勝負だけは――!
「残り200m!後2馬身!」
頼む、来るな、来るな!来るな!
「80%。だがまだやれるだろ、コガネ」
「まぁな。あいつに勝つためには、こんなところで負けてたまるか」
ちくしょう、なんでお前は騎手と会話できる余裕があるんだよ!コガネ!俺がこんなに一生懸命になって走っているというのに!なんでお前は……!
「残り1馬身!」
「これが――100%だ」
「……並んだー! コガネスターロード、遂にシンジスカイブルーを捉えきった! 残り100m!」
なんで、なんでだよ。なんで並んでんだよ。俺は、2号と心を共にして、力を手にしたのに! なんでこんなぽっと出の奴に三冠を邪魔されなきゃいけないんだ! 俺の方が勝ってるのに! 俺の方が強いはずなのに!
「シンジさん! 気持ちを落ち着かせて!まだ負けた訳じゃない! まだ少しだけ勝っている!このままいけば、三冠は取れるんです! 決して気持ちを切らさないで!」
「そうだよ1号!今日の1号、1号らしくないよ! あのかっこいい走りをしてよ! 心が乱れちゃ、上手くシンクロ出来ない!」
負ける、負ける。負ける! 負けたら、おっちゃんの借金も、俺の三冠も、2号の夢も、みんな潰える!終わる!終わる! 終わっちゃう!
ブチッ
心の中で、何かが切れた音がした。決して、身体の機関が切れた訳では無い。肉離れでもない。だが、俺の心が急激に冷めていくのを感じた。
「ここでシンジスカイブルー失速! 逆にコガネスターロードがリードを広げる展開となった!」
脚がいつものように動かない。スピードもない。スタミナが無くなったわけじゃない。そう、俺の心が乱れたせいで、2号の力が使えなくなったのだ。これでは、勝ち目がない。
「コガネスターロード、シンジスカイブルーを差し切ってゴールイン! 勝ったのはコガネです!シンジではありません! 黄金色の刺客が、葦毛の夢を奪い去った! 大波乱、大波乱のレースです!」
俺は後ろから、勝者の背中を呆然と眺めた。




