拾
かつての主人が亡くなってからしばらく経ってからのことだった。
その代の者がすべて亡くなっても、当主の馬はずっと生きていた。人と同じほど生きると言われているとはいえ、すでに老馬だったにも関わらず未だに生きている馬を恐がっていたりもした。
しかし、そこである長者がこう言ったのだ。
「彼の馬は、歴代当主の意思を継いだ守り神にちがいない」
馬は内心で苦笑したが、厚遇してもらえるのはありがたかった。
当主が亡くなったあとは彼を使うものは限られていた。歴代当主を背に乗せてあちこちへと向かっていたものだった。
だが、もう桜を見に行くことはなかった。一族の間で、禁忌とされていたからだった。
時が経ち、長く生きる獣は妖術を身につけるのだという。狐も狸も、そして猫もそうだ。歳を重ねていけばいくほど、己の中に力を溜め込む。妖術はその力の一端だ。
その例にもれず、この馬も力を身につけていった。やがては空を駆けることも、人に化けることもできるようになり、白路という名前を自身につけ、そしてそれが人に恐怖を与えてしまうことも知った。それだけの賢さを獣が得るほどの時間であった。
白路はときどき、厩を逃げ出す。人の姿になって、夜中の屋敷や村を走り回っていた。他人に興味を持ち、話を盗み聞いたりしていろいろと人について知っていく。
人同士の付き合いの悩み、悲しい出来事、妬み嫉み。
誰かと出会う楽しみ、嬉しい出来事、憧れ羨望。
そうしたものがたくさんある。それも一つの色ではない。そして同じ度合いではない。
白路にはそれが新鮮だった。当主を側に見ていて、人の情をたくさん感じてきたが、人がこれほどたくさんの色合いを持っているとは知らなかった。
賢さとは関係ない、しかし大切なものを手に入れていったのだった。
そんなある日である。白路は夜中に屋敷を歩いていると、琴の音色が聞こえたのだった。少し寂しげな雰囲気があった。
白路はすぐに、その音を奏でる者に思い当たる。もうじき、十五になる娘。現当主の娘である。お転婆姫、などと言われるほどやんちゃであり、白路は彼女のやらかす時を何度か見たことがある。白路はその顔を覗いてみようと思った。
思わず白路は見惚れた。昼に見る姿と、夜に見る姿はまったく違っていた。
いつもは明るい、歯に衣着せぬ物言いをし、好奇心のままに動く彼女であったが、夜の彼女は憂げであった。いまにも透き通ってどこかへ行ってしまいそうな、雰囲気があった。
「そこにいるのは、誰?」
姫が気づく。白路は急いで隠れた。
この日はこれくらいにしよう、と大人しく自分の厩に戻っていった。
あくる日、狩りに向かうことになった。当主やその息子は、山に行き鹿を弓矢で射っていた。
そしてお転婆姫はその狩りに同行していった。たまには外に出たい、と駄々をこねたのだという。
父も兄も、姫が見ているからかと張り切ってその結果を競った。
が、とうの姫は狩りになど興味なく、山々の景色にみとれるばかり。そして彼女は、人の目をかいくぐって抜け出す。
白路も、こっそり人の姿になって抜け出す。妖術を使って見つからないように。姫のあとを追っていった。
そこで白路は見つけてしまう。姫が崖から転げ落ち、川へと落ちてしまったのを。そして彼女は溺れている。
思わず、白路は駆け寄る。馬の姿では水は恐かった。けれども人の姿では別だ。
溺れる彼女の元へ寄っていく。川は腰ほどの深さであるが、少女が溺れるには十分だった。
そして白路は姫を助け出し、岸へと運んだ。息を深く吸う彼女。白路はその背を撫でた。
「もし、もし」
ぎくり、と白路は焦る。濡れていても、少女は美しかった。姫は続けた。
「私は真緒。助けていただき、ありがとうございます。このお礼はどうすれば……ところで屋敷の方ですか? それとも里の者でしょうか?」
首をかしげる姫。まくしたてる口調であるが、丁寧だった。それが余計に、白路の胸を高鳴らせる。
白路は何も言わずに立ち上がり、去ろうとする。
「お待ちになって。貴方の名前は?」
「お、俺は……白路。俺に会ったことは誰にも言わないでくれ」
生まれて初めて、名を名乗った。真緒が白路の名を知った初めての者である。
黙ったまま去ろうとした無礼をなんとも思ってないようで、真緒は朗らかに笑った。
「まあ、わかりました。何か事情があるのでしょう。よければ、また夜にでもいらして」
そこらの男が聞けば勘違いしてしまいそうなことを、姫は平然と言った。
姫を探している家の者たちがやってきた。白路はそっと茂みに隠れて、馬の姿に戻って、再び真緒の元へ向かったのだった。




