壱
これは夢だ。京士郎はすぐにわかった。
さっきまで雪の中にいたが、いま見えている景色は実った田の中であった。
豊かな稲穂が揺れていて、暖かい。冬であったというのに、秋の光景だ。
辺りを見渡す。志乃はいない。そのことに京士郎はため息を吐く。
散々泣いた。散々探した。
わかっている。彼女は跡形も残さずいなくなったことなど。
だが、諦めずにはいられなかった。
しかし、無情な結果に終わった。
腕に力がこもる。京士郎は思わず、叫びそうになった。
「こらこら、そんな力を入れるな。夢が覚めてしまうであろう?」
声が聞こえた。京士郎は顔をあげる。
気づけばそこには巨大な岩があり、その上に誰かがいた。
その者は人の姿をしているが、狐の耳と尾を持っている不思議な人物だった。見ればわかる、妖艶さ。
京士郎はその者を見て、天狗を思い出した。だが、それがどうしてかわからなかった。
「あやつと比較してくれるな、虫唾が走る」
「俺の心が見えるのか?」
「ここはお前の夢の中。私は間借りしているだけ。であれば、ここはお前の心も同然よ」
くくっ、と扇子で口を覆い隠してその女は笑う。愉快そうであったが、どうしてか京士郎は苛立たなかった。
静寂の中に、風が穂をゆらす音が鳴った。耳の心地よい音だった。
改めてみるも、京士郎は目の前の女が何者なのかわからなかった。鬼でなければ、清が呼び出した神霊でもなさそうだ。であれば、いままで会った中では天狗のような妖が近い。
京士郎は少しだけ、岩に近づいた。
「どうして俺の前に現れた」
「なあに、美しい魂があると思えば、あまりに哀れだったからなあ。ふと、声をかけてしまいたくなった。歳をとるのは嫌だのう、ついつい、若人に手を伸ばしたくなる」
目を細めて京士郎を見た。色気のある瞳だった。あの目で見られれば、男も女も関係なく虜になってしまうだろう。
だが、京士郎はそれを力なく見返した。狐の女はやれやれ、と首を振る。
「私の色香にも惑わされぬとは、さてはいよいよいい男だなお前は」
「女ひとり、守れないというのにか?」
「ふん、そこはまあ、あとで話すことにしよう」
「あとで?」
京士郎が問い返すと、狐の女は頷いた。岩の上に立ち上がって、月を背にする。
そこでようやく、京士郎は月が昇っていることに気づいた。あと少しで満ちる月。だが、京士郎の知っている月とは違うように見えた。
「そうだ。私の元へ来なさい。相手をしてあげる」
「だが」
「どうせ行く当てなどないだろう。それとも……むふふ」
狐の女は少しだけ勿体ぶった。京士郎が促すのを待っている。
遊ばれている。そう思うも、付き合わなければこの女はずっと待っていそうだと思えた。
「なんだ、それは」
「殺生石は私が持っている」
京士郎の目が見開いた。
打ち出の小槌、浅間の髪飾りに続いて、京士郎が手に入れなければならないもの。
女は笑う。京士郎の瞳をじっと見ながら。
「お前のことならば大抵、知っておる。お前が如何にして生まれ、如何にしてそこにいるのか。さっきあったこともな。その上で言おう。お前が求めているものを、私は持っている」
女は男を誘うような、色っぽい声で言った。
京士郎は迷った。志乃とともに歩んだ旅。しかしその志乃がいなくなってしまったから、もはや旅を続ける理由はないかのように思えてしまった。
もちろん、志乃はそんなことを望みはしない。京士郎もまた、旅の目的は志乃との行脚ではなく、この世を救うことにあると思っている。
だが、志乃のいないこの世に意味などあるのだろうか、とすらいまの京士郎には思えてならないのだった。
「目的がないならば、まずは動いてみよ」
女はそう言った。そうだった、この女には自分の心が見えるのだったと、京士郎は思った。
「……お前はどこにいる」
「ここより北東、那須。お前がいままで歩んだ道のりの中で、最も遠いものになるだろう」
「上等だ」
京士郎はそう言う。女は満足そうに頷いた。
「我が名は玉藻。名は?」
知っているだろうに、と思いながら答える。
「京士郎だ」
「では、京士郎。待っているぞ。なあに、待つのは慣れっこだ。ゆっくり来ても構わん。だが、あまりに遅いとこの世が滅びるから、それだけは注意だ」
そう言うと、景色が急激に遠のいた。




