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かぎろひの立つ  作者: 桂式部
第七章 心のうちに 燃えつつぞ居る
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拾肆

 静かだった。

 風がなくなり、木々も黙していた。

 日の光さえ、音を持ちそうなほどの静寂。

 京士郎はその中で一人、笛を構えていた。

 落ち着いている。気分は最高であったが、ここに坐して待つことが、苦ではなかった。


 己の中の気が熟す。


 京士郎は息を吹いた。

 龍が鳴くような音が、静かな空を切り裂いた。

 音は、聴く者がいれば風をその景色に見ただろう。

 それも暖かな、春を連れてくる、風。

 巻き起こしているのは京士郎。

 嵐のように苛烈であるも、そよ風のように優しく身を包むような気配。

 熱があった。大気を焦がしてしまうような、熱が。

 けれども、京士郎は燃える意思を律する。

 己の吐く熱い吐息を旋律へと変えて。

 静かな叫びだった。何よりも己の意思を、色をつけずに乗せている。


 そして、それに応える者がいた。


 舞台に現れた少女。

 未踏の雪が如く、白い肌。

 盛る炎のように、赤い頬。

 墨染とも思える、黒い髪。

 瞳は鋭く、されど静かに。

 少女は志乃だった。京士郎のよく知る者、そして京士郎ですら知らぬ顔。

 心が躍った。男がいれば、惚れずにはいられまい。

 天から降りた女とは、まさに彼女のことではないかとすら、思えたのだった。


 シャン、と鈴が鳴る。


 場を律する音だった。己の心に宿る邪念が祓われたかのように、心が凪いだ。

 けれども炎までは消せない。

 京士郎の奏でる音が、一層の熱を増した。

 奏でる音色は、志乃を導く音頭おんどだった。


 京士郎の音に合わせて、志乃は進んだ。

 腕が振り上げられる。

 天に御座す神々よ、我が心を見よ。

 そしてかかる雲を払うかのような動き。

 拾い上げ、捧げる。豊穣を祈る舞い。

 冬にさす鋭い陽光をものともせず、優しくあれと告げる。


 ときに止まり、ときに動き。

 動きのすべてが、京士郎の目を奪った。

 ましてや、彼女の動きを己が支配している、彼女が京士郎の音に応えるということが、ますます京士郎を燃えさせた。

 それを必死に制する京士郎。

 いざ知らず、志乃の舞は妖艶さを極めていた。

 口が開かれる。


 ————此の世には 華やぐおもひ さくらさく


 ぞくりとするような声であった。

 決して大きな声ではないものの、京士郎の腹の底に響くような声だった。

 神楽について学んだ京士郎は知っている。神に捧げる歌は三十一音。

 志乃が口にしたのは未だ十七音。上の句に過ぎない。


 続きを聞かせろ、もっと声を聞かせろ。

 いいや、永遠にこの時が続け。お前の舞をずっと見せてくれ。


 相反する二つの思いが、京士郎の中を迸る。

 血潮が沸騰しそうだった。腹から熱が溢れそうだった。

 そのたびに、自分に与えられた奏手という役割が引き止める。けれども音を奏で終わりへと向かわせるのもまた、己の役割であった。

 悦び、恨み、悲しみ、怒り。そんなものが渦巻いている。


 ————夜明けを待つは 秘めたるものよ


 下の句が響いた。己の中にある思いが見透かされているようだった。

 京士郎の目が開く。必死に堪える。

 己の思いすべてをすべて、志乃にぶつけそうになる。

 そんなことをしてしまえば彼女は壊れてしまう。

 自分に流れる鬼の血も、自分に宿る獣の心も、力と理性で抑え付ける。


 細められた目を京士郎は志乃へと向ける。

 志乃もまた、見つめ返す。交わされる視線。

 声なき会話に二人は満足し、笑う。

 音色は一層の激しさを見せる。志乃の舞も絶頂に達しようとしていた。

 京士郎の奏でる音が、志乃の歌う声が、響き合う。


 音は風に乗り、

 風は舞に乗り、

 舞は天に昇る。


 志乃を阻むものを音で裂いていく、京士郎の音。そして優雅に咲いていく、志乃という花。

 京士郎の起こす風が彼女を一輪の花へと仕立て上げ、そして空へと登らせていくのだった。

 二人はまさにこのとき、一つとなっていた。

 一層強い吐息を京士郎は笛へと込めた。

 その音に、志乃が激しく応える。

 幻視する。京士郎はその様に。


 雄々しい山の強大さを。

 流るる川の力強さを。

 乱れ咲く木の花を。


 いまここに世界が生まれる。その世界は京士郎と志乃を襲う。

 息が止まりそうだった。だが、京士郎は息を吹き続ける。己の精神のある限り抗う。

 決して呑み込まれてたまるか。引っ張られてたまるか。そう思いながら。

 その音を頼りに、志乃は舞った。音に引かれたから、足を止めずに済んだ。


 やがて、神楽も終わりへと近づいていく。

 静かに京士郎は音を引いていった。それに合わせて志乃もまた舞台から降りていく。

 ゆっくりと一歩ずつ。逃げるのではなく、帰るように。


 神楽によって生み出された世界は、ここで終わる。

 異界を生むは神のことわり

 異界から帰るは人の理。


 二人は帰る。その手に手をとって、帰るのだった。

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