拾参
一晩が開ける。いいや、正しくは日が昇るより前。
京士郎は巫女たちに手伝ってもらいながら、身支度を整えていた。
正装になって、身を翻す。慣れぬ服装であるが笛を吹くには問題なさそうだった。
だが、京士郎の心は晴れないままだった。清の言葉も、伊月の言葉も、飲み込むことができなかった。その上で、彼女たちの思いを汲もうと思ってしまっている。
こんな考えを抱えたままでは、上手く笛を吹くことなどできない。自分の求めていた音色から、遠く離れてしまう。
すると、きっと神楽は失敗する。他ならぬ京士郎の勘がそう告げていた。
気持ちの整理だけはつけなければ、そう思って深呼吸をする。
神楽の舞台が整っていくのを眺める。緊張感が湧き上がってくる。
数々の者が挑戦し、破れていった。それは鬼であれ、神楽であれ、変わらない。自分はいつだって挑戦者だった。
だが今回は少し違う。自分は努力し、限界だって見えていた。その上で、敵わぬと思ってしまっている。
笛を構えて、指の動きを確かめる。こんなもの意味はない。そう思っていても、やめられずにいた。
「もう来てたのね」
志乃がやってきた。いつもとは違う、巫女装束に白い千早を羽織っている。
彼女の神楽における衣装なのだろう。立派なものだった。
「ああ、不安でな」
「珍しい。京士郎でも不安に思うことがあるんだ」
「いつだって不安だ」
思わず、口をついて出る悪態。志乃はくすくすと笑って、京士郎の隣に腰掛けた。
「浮かない顔をしているけど、どうしたの?」
「大したことじゃない」
そうは言うが、京士郎は自分の口を止めることはできなかった。
「そういえば、お前が舞を習っていたのは誰なんだ?」
「伊月さまよ。知らなかった?」
知らないふり。自分もすっかりずるくなってしまった、と自己嫌悪に陥る。
口下手だったけれども、丁寧に教えてくれたわ、と志乃は言った。
「京士郎は清でしょ?」
清の名前を出されて、ぎくりとする。
「ああ」
「清、ものを教えるのが上手そうよね。きっといい指南者になれるわ」
「そうだな。おかげで俺も、短い間で笛が上達した」
「ずっと言ってたわ。京士郎には才能があるって。相方として頼もしいわ」
志乃は楽しそうに笑う。
そう言うなら、志乃もそうだった。清は志乃に才能があると言っていた。彼女の言葉からは、京士郎の持つそれよりもずっと強いものを持っているに違いない。
「神楽が終わったとき、お前はここに残れ」
京士郎はずっと、腹にあった言葉を言った。
驚いた志乃。京士郎の目をまじまじと見る。
「何を言ってるの。私たち、一緒にここまで来たのに」
「これまではそうだ。これからは違くたっていいだろう。それに、ここから先は、本当に危ない旅になる」
「そんなの、百も承知よ。それに、私には私の役割があるの」
志乃は固くそう言った。この頑固さは、旅の間もずっと変わらなかった。
「……何か隠してるでしょ」
「は?」
「無駄なんだからね。京士郎、隠し事が下手くそよ」
こわばっていた顔が崩れる。京士郎は頬をかいた。
神懸かりだとかそんなもの関係なく、志乃は京士郎の隠し事を見破った。それがわかってしまったのだから、笑うしかない。
「ねえ、京士郎。誰に何を言われたかわからないけれど」
志乃は、京士郎の手を握る。そして京士郎の瞳をじっと見る。
逸らそうとするも、そうできないだけの力がこもっていた。
「本当のことは貴方の中にしかないのよ。きちんと、正直に言って。自分の言葉を」
その言葉が、京士郎の胸に突き刺さる。
自分の言葉。本当の言葉。
それは己の中にしかないと、いうこと。
知っていたはずだった。それは茨木童子や、天狗にかけられた言葉によく似ていた。
「俺は……」
声は掠れていた。必死になって、絞り出した。
たくさんの言葉の中から、選び取りながら。
「わからないんだ。自分の思いが。俺は何を選べばいい。ずっと、そう思っていた」
けれど。
「俺は、お前が見たいという景色を共に見たい。一人では見れないものがたくさんあると知ったから」
京士郎は立ち上がった。握ったままの手が、志乃を引っ張りあげた。
二人は手を握ったまま、見つめ合う。どこからともなく、笑いがこぼれた。
「当然。貴方は私が選んだ男なんだから、最後まで付き合ってもらうわ」
素直になれない二人の、素直じゃない本音。その音はお互いの芯まで響いていく。
さあ、行きましょう。そう言って彼女は歩く。千早を翻して、まっすぐと。
京士郎はその跡を追った。剣の代わりに、笛の握って。
空が明るくなる。二人を集中させるために、他の巫女たちは姿を消していた。
志乃が髪飾りを身につける。それは蔦の巻き付いた櫛だった。
こうして舞台は整った。




