拾弐
社の中を京士郎は歩く。部屋に帰るまでに身体についた清の残り香を払いたかった。そうでもしなければどうにかしてしまいそうだった。
外の空気は、京士郎を刺すかように冷たい。星兜を身につけていない今では、なかなかに堪える。
吐いた息が白い。ぼうっとそれを眺める。
清の告白。なぜ今なのか、わからない京士郎ではなかった。
彼女は賢い。いま、このときを逃せば二度と言う機会がなくなると知っているのだ。そして京士郎の思いを揺らせるということを……。
また白い息。今度はため息。
心の整理がつかないまま、京士郎は歩き続ける。すれ違う巫女たちに声をかけられるも、上の空だった。
そうして歩いていると、気づけば一番奥の間にまでやってきてしまった。ここには伊月の部屋しかなく、彼女の部屋に近づくのは気が引けた。
引き返そうと踵を返すと、中からさめざめと泣く声が聞こえてきた。
悪いことだと思いながら、京士郎は部屋を覗きこむ。
そこでは伊月が泣いていた。京士郎ががらんどうだと思っていた瞳から、涙が流れていた。
清に言われたことを思い出す。志乃は伊月の子であるということ……。京士郎は、少しの寂しさを覚えた。
「こそこそせずとも、良いのですよ」
伊月が言った。京士郎はぎくりと、動きを止める。
どうやら見つかっていたらしい。京士郎は部屋へと、足を踏み入れた。
「悪い、覗くつもりはなかった」
「いいえ、このような失態を見せた私の落ち度。気にすることはありません」
気丈に、しかし赤くなった瞼を隠さずに伊月は言った。
京士郎は迷った挙げ句、伊月と向かい合うように座る。
「……泣いてた理由を聞いていいか?」
京士郎が言うと、伊月はふうと息を吐く。
「明日の神楽を終えれば、どのみち貴方がたには去っていただきます。そこに一抹の寂しさを覚えずにいられましょうか」
「それは本当に、俺たち……いいや、俺のことなのか」
伊月は顔をあげた。無表情であったが、目は大きく開かれている。
「知っていたのですか」
「俺はわからなかった。だけど、わかったやつがいた。そいつから聞いた」
清の名前はあえて出さなかった。しかし、伊月には見透かされているだろうとも思った。
何せ、この社で一番聡いのは彼女なのだから。
「お気づきの通り、志乃は私の娘。ある殿方との間に生まれた子……許されぬ子なのです」
「許されないなんてことは」
「ええ。ですので許されぬのはこの私。彼女は責められる謂れはないのです」
伊月はそう言う。京士郎はがらんどうだったはずの瞳を見た。
「よければ、話を聞いてもらえませぬか?」
「俺でよければ」
好奇心に負ける。いや、それ以上に伊月に話させてしまった負い目から、最後まで付き合おうと思ったのだった。
「私が京で、宮廷の巫女として舞手を務めていたころ、私はある男と恋に落ちたのです。逢瀬を重ねて、あの子が生まれました。けれども、時機が悪かった。彼女は、神楽の後に生まれた子なのです」
「と言うと?」
「神憑り。神をこの身に降ろした際に産んだ子なのです。……遥か西方には、意図して神の子を産む術もあったと言いますが。ともあれ、私たちは産んでしまったのです、神の子を」
京士郎は息を飲む。絶句だった。
志乃は京士郎の目から見て、ごくありふれた少女のようにしか見えない。
だが、彼女を見ている者は違う。志乃には才がある。志乃には力がある。そう言われ続けてきた。
確かに思い当たる節はある。大江山、茨木童子を討ったあのとき。
なぜ、陰気満ちる大江山で彼女は平然としていられたのか?
なぜ、あれほどの術を放つことができたのか?
神懸かりと言われるのは、何も身体が強いだとか、そういうことだけではない。京士郎はそのことを失念していた。
「あの子は私と離されました。私はここへ、志乃は……どこへ行ったかはわかりませんでした。少しずつ、舞の鍛練の中で少しずつ、語っていただきました」
胸の布地を掴む伊月。その声音から、その言葉から、思いが溢れている。
彼女の喜び。彼女の笑い。彼女の悲しみ。
伊月の持つ虚ろの正体。失ったはずの子が帰ってきたら……。
京士郎の胸が痛む。志乃には、父と母がいる。それらに気づいた今、彼女を幸せから離しているのは自分なのではないか。
「貴方が悲しむことはありません」
伊月が言った。
「むしろ、貴方はあの子をここまで連れてきてくれました。そのことに、深い感謝を」
彼女はそうは言うが、ここまで言われれば伊月が泣いていた理由もわかる。
京士郎と志乃は、明日の神楽を終えればここを去る。否応なく、二人を引き裂いてしまう。それは許されることなのだろうか。
そしてその寂しさは、清の顔を思い浮かばせた。
志乃を置いて、自分を連れていけと言った清。どうにもそれが、現実味を帯びてきた。
「ふふっ」
伊月が笑っていた。彼女の見せる、初めての笑顔だった。
京士郎は首を傾げる。
「とても強い目ね。人を魅了する力がある。……ご立派な父だったのでしょう」
「なぜ、それを」
「これでも巫女ですから」
京士郎は言葉を失う。
魅了する、などと言われて戸惑う。
「魔は、人を惹き付けます。社の巫女たちも貴方を敬愛しております。くれぐれも、大事にしてくださいませ」
「あ、ああ……」
「それと」
伊月は居直る。京士郎の瞳を強く見た。もはやがらんどうなどではない、力強い火が宿っていた。
「志乃をお願いいたします。不肖ながら、私は彼女の母。思うところはありますので……」
奇しくも、それはかつて京で、姫から言われた言葉とよく似ていた。
瞳を通してわかる、本心。それは志乃と共にいたいというもの。それを必死に、抑えていること。
京士郎の心の裡は揺れるばかりだった。




