拾壱
神楽を予定している、前日になる。
その日は夜まで京士郎の練習は続いた。
夜に笛を奏でたり、歌うと魔が出てしまうから、訓練は打ち切りになった。
しかし、京士郎はまだまだ物足りなかった。清に教えを請い、自分に足りぬところを見直していく。
清は逐一丁寧に教えてくれる。その指導に従って、京士郎は直していく。
だが、それでも。まだ足りなかった。
自分の奏でる音には何かがない。その何かが、京士郎を悩ませる。
いままで聞いてきた音、それも自分が心を躍らせた音。
それは何も誰かが奏でた音色だけではない。
木々のさざめきもそうだ。川のせせらぎもそうだ。
あるいは誰かの話し声、ささやきあい。志乃の声、姫の声、清の声。
それらにあって、自分にはないもの。
京士郎はずぶずぶと、思考の海に沈んでいく。
「京士郎」
声にはっとして顔を上げると、清がじっと京士郎を見ていた。
その瞳はどこかうろん気であり、京士郎はごくりと息を飲んだ。
「悪いな、ぼうっとしていた」
「京士郎」
「……?」
京士郎は訝しむ。清はまるで、自分の声を聞いていないようだった。
彼女はずいっと、京士郎に近づく。顔が近い。潤んだ瞳に自分が映っているのが見える。
清は、京士郎の胸に手を当てた。心臓の鼓動を確かめるように。
そして清は京士郎の胸に飛び込んだ。
そのとき、むんっと匂いが待った。いつかの香の匂いではない、もっと強く、京士郎の頭を揺さぶる匂いだった。
戸惑い、目を白黒させ、京士郎は清の肩に手を当てる。清は腕を京士郎の背中にまで回して離さない。
「おい、おい!」
「静かに。誰かに気づかれるから」
清は短くそう言った。ぞっとするほどの色気があった。
一体なんなのか、京士郎は状況を解するのに頭が追いついてなかった。
思えば、あの霊に襲われてから少しだけ様子がおかしかった。
「どういうつもりだ」
「京士郎、私、もうだめみたい」
「だめってどういうことだ。さっぱりわからないぞ」
「……鈍感」
清は顔を上げる。上目に京士郎の顔を見ていた。息が詰まる。
どうしたっていうのか。お前は何をしたいんだ。
言いたいのに、言葉は喉で止まる。
「京士郎、私はあなたが……好きです。好きで好きで、どうしようもなくなってる自分がいる。あなたと出会ったときから、ずっとそれは大きくなって」
「なっ……」
京士郎はがつんと頭を殴られたかのような衝撃を受けた。
清の告白は京士郎からしてみれば、あまりにも突然であった。
「もちろん、異性として好き。あなたに側にいてほしい」
「だが、お前は巫女だ。それもこの社にいる巫女たちを取りまとめる」
「そんなの関係ない」
静かに、力強く。清は言った。
「ねえ京士郎。私をここから連れ出して。私はずっとあなたを見てるから。ううん、私はあなたしかもう、見えないの」
ぶるりと、清は体を震わせる。それが京士郎にはくすぐったく感じた。
これ以上はだめだ。声が耳を侵し、香は鼻を犯す。京士郎の脳がかき乱される。
「俺は……でもあいつが……」
「志乃のことが好き?」
そう聞かれて、すぐに答えることができなかった。
清はぐっと、顔を近づけてくる。
「俺はあいつについて行ってるだけだ。だから、俺が勝手に」
「嘘。京士郎はもう、一人でも歩いていける。それに、志乃の気持ちなんて関係ないよ。私とあなたの問題なんだから」
そう言われると、そうかもしれない。京士郎は清の勢いに呑まれつつあった。
鬼の陰気にさえ呑まれたことのない京士郎であったが、清のような普通の少女には敵わないでいた。
「それに、志乃はここに残った方がいい」
「……どういうことだ」
京士郎は低い声で言った。清は臆することなく、答える。
その内容に自信があるかのように。
「志乃は、伊月様の子です」
京士郎は一瞬、思考が彼方へと飛んで行った。
それがどういう意味を持つのか、どうしてそんなことが言えるのか、わからなかった。
「志乃に舞を教えているのは、巫女たちの誰かだとずっと思ってた。でも違った。伊月様がずっと付きっ切りで、志乃に舞を教えてたの。そして志乃には……私たちでは到底及ぶことのない才を持っている。当たり前よ。だって、あの伊月様の子なのだもの」
「何を言って……」
「初めて見たときからずっと思ってた。二人が纏う雰囲気が、とてもよく似ているの。京士郎は気づかなかったみたいだけど、私にはわかる。伊月様がふと見せる笑顔が、そっくり」
京士郎は何も言えなかった。あえて考えていなかったことを、清の口で語られてしまった。
それはそうだ。志乃にも自分にも、父がおり母がいる。そして志乃の父が生きているのだから、母が生きていたとしてもおかしくはない。
いいや、それが当たり前なのだ。
「二人を一緒にいさせてあげたい。その代わりに、私が行く。それでいいじゃない」
「言っていることがめちゃくちゃだ」
だって、清がきたところで何になると言うのか。あの霊ごときに遅れをとる清が京士郎とともに戦えるというのか。
そんなことを言ったって、通用はしないだろう。
京士郎は少し身を引いた。清は力を抜いた。京士郎が支えなければ倒れてしまうほどに。
服は開けて、肩と胸を覗かせた。真っ白な肌と、彼女の肌からさらに立ち上る香りが、京士郎を誘う。
京士郎は立ち上がる。しなだれかかる清を振り払って。
驚いた顔を浮かべる清。
「京士郎……どうして」
「わからない。何も、わからない。俺には何もない」
そう言って、京士郎は部屋を飛び出した。




