漆
京士郎は稽古場に入った。
と言っても、そこは寝泊まりしている部屋より少し広い程度の間だ。
ここで京士郎は、楽器の鍛錬をするように言われている。
だが、肝心なその師がやってこない。
部屋の中をあちこち歩き回って、気を紛らわす。
飾られているのは書だ。何かを伝えるものなのだろうが、京士郎は文字が読めない。意味を理解することもできず、何かの絵のように思うのが精一杯だ。
長く旅をしてきたが、自分ができるようになったのは、刀を振るうことだけなのではないか。
そう思うと、少し落胆する。
もう少し、何かを学べているものだと思っていたが、そうではないらしい。
誰かが近づいてくる気配がして、そそくさと座り込んだ。
襖を開けて入ってきたのは清だった。
「失礼します……なぜそんなところに?」
壁際に座っている京士郎に清は首を傾げた。
真ん中に座ればいいのに、と笑う清。京士郎は、頬を掻きながら部屋の真ん中へ向かっていった。
「お前がもしかして」
「はい。師を務めることになりました、清でございます」
わざとらしく丁寧な言葉で清は言った。
京士郎は安堵のため息を吐く。これでまた知らない者が来たら、どうしようかと思っていた。ある意味、期待通りだった。
「さっそくだけど、京士郎。笛をやりましょう。たぶん、京士郎に合うと思うから」
そう言って清が布袋から取り出したのは、横笛だった。龍笛、と呼ばれるものらしい。
受け取って、京士郎はいろんな角度からそれを見た。
「おい、これはどうやるんだ」
「まずはどう使うか、試してみて」
清は言った。京士郎は笛の中でも大きな穴を見て、口をつける。
これでいいのかと清を伺うと、彼女はにこにこと笑っていた。「どうぞ、吹いてみて」と言っているようだった。
京士郎は息を吐き出す。
笛から音にならない音が出た。
「ぷっ、ふふふ」
「笑うな!」
「だって、そんな思い切り吹くなんて思わなかったとの」
京士郎としては柔らかく吹いたつもりだったのが、清からすれば違ったようだった。男女の違いか、それとも笛の腕に違いがあるのか。
手を差し出した清に、京士郎は笛を渡す。
そして清は、笛を構えると、口を当てる。その仕草は、不思議な色香があった。
彼女が息を吐く。すっと、高い音が出た。京士郎はその音に、吹き抜ける風を見た。
そしていくつかの音を鳴らし、口を離す。
感嘆の声を京士郎は漏らした。
「すごいな」
「そんな、これくらいどうってことないけど……ありがとう」
清は笑う。あまり褒められたことがないのだろうか、照れがあった。
「一朝一夕にできるようにはならないわ。覚えなきゃいけないことはいっぱいあるもの。指の位置と音とか、旋律とか……。まずは口の形と息の吹き方。ほら、京士郎」
清は京士郎の手に笛を渡す。そして手を掴んで、指の位置を調整していく。
「ここをこう持って、こうやって」
丁寧に指を一本ずつ導いていく。
京士郎はどうしてか、少しどぎまぎしてしまった。
一通り教えると、清は満足そうに頷く。
「うん、そしたら、これで息を吹いてみて。今日はまだ指の動きはいいから」
京士郎は頷いて、笛に口をあてた。そして、すうっと息を吐く。
少しだけ音が出た。だがそれも持続しない。いい音とも呼ぶこともできない音だ。
「繰り返して、身につけるよ。時間はないんでしょ?」
これは想像以上に厳しい指導だぞ、と京士郎は苦笑い。
それからずっと、清の厳しい指導のもと、京士郎の笛の特訓が始まった。
ときに実演しときに手取り足取り指示していく。
その日のうちに、京士郎はいくらかましな音を出せるようになっていた。
「驚いた、やっぱり才能あるわ」
「そうか?」
音が出せた程度で大げさな、と京士郎は思うが、清はとんでもないと言う。
「もうそんな音を出せるのは、本当にすごい。私だってできなかったもの」
そう言われれば、嫌な気持ちもしなかった。
顔を思わず綻ばせる京士郎の頬を、清はつつく。
「調子に乗らないでね。言っておくけど、いまのままでも遅いんだから。数日でできるようになんてならないけど、どうにか形にするんだからね。いい、わかった?」
「あ、ああ」
少しだけ、清に恐怖感を覚えた京士郎であった。




