肆
一晩あけて、京士郎は疲れを癒した。
久しぶりに暖かく、ゆっくり寝れる寝床だった。京以来だろうか。不慣れではあるものの、こうしたものが多くあればたくさんの人が癒されるのではないか、と柄にもなく思ってしまう。
庭に出れば、清涼な空気が京士郎を包み込んだ。冬の冷たさが肌を刺すようであったが、森の木々が生み出す空気は格別だ。
少しだけ、故郷を思い出す。生まれ育った里の森と同じものを感じたのだった。
踏み入れたときは、そんなことを感じる余裕もなかった。
疲れを癒すということはすなわち、ものを感じさせるようになるということなのだろう。
あまり空気を吸いすぎて、昨日のように“戻って”しまってはことだ、と気をとりなおす。いまの体調であれば、早々にああなってしまうことはないだろうが。
「京士郎、こんなところに」
話しかけてきたのは清だった。
服は巫女服であるが、昨日より少しいい匂いがする。
「ちょ、ちょっと恥ずかしいので、その」
京士郎が鼻を鳴らして嗅いでいると、清が頬を染めて言った。
香りの元が清であると知る。鼻の利く京士郎であるが、寒さのせいでうまくいかなかった。
「悪かった。少し配慮が足りない、とあいつにはたびたび言われているんだけどな」
「あいつって、志乃のこと? 本当に、仲良いのね」
仲が良い、というのとは少し違う気がするも、それをわざわざ直す気にもならなかった。
たぶん傍目からは、そう見えるのだろうから。
「ずいぶん早いな」
「ええ。禊ぎをしていましたから。京士郎も伊月様とのご面会の前に体を清めては?」
「そうさせてもらう」
「もちろん、志乃とは別ですからね?」
京士郎は苦笑。清は手を口元にもってきてくすくすと笑った。
「そうでなくとも、ここは女所帯ですから。配慮します」
「……ああ、そうなのか。道理で男がいないわけだ」
京士郎は昨夜から不思議だったのだ。この社に来てから、男の姿を見たことなかったことが。
清は笑みをずっと浮かべている。いつも仏頂面の志乃とは正反対だ。どちらかといえば、姫に近いだろうか。
「不便じゃないか。俺の里にも、女だけの家があってな。えらく忙しそうだったが」
「ええ、幸いに。穀などは運んで来てくれる方がいますし……あ、このことはくれぐれも」
「口外するな、か?」
「はい」
にこにこと清は笑っているが、その笑顔には凄みがあった。
そもそも言う相手がいないのだから、問題はなにもない。
それからしばらく、縁側で京士郎と清はゆっくりとした時間を過ごしていた。鳥の鳴き声に耳を澄ましたり、風を楽しんだりする。京士郎はついぞ、そういうものに楽しみを見出したことはなかったが、清はなにか感じるものがあるらしい。
志乃は疲れているからか、まだ起きてこない。京士郎はちらりと様子を伺ったが、気配もしなかった。
「気になる?」
「……あいつはそんなに体が強くない」
それはこの旅を通して、感じていたことだった。
初めて会ったときも、大江山のときも。京士郎と比べてしまえば無茶も無茶ではないが、常人からすれば相当の無茶をしている。もちろん、樹の海のときもだ。
「大切なんだね」
「どうだろうな。俺は……あいつしか知らないから」
「一人のことでも、知ってるって良いことだと思うよ」
「そうなのか」
「不安?」
京士郎は躊躇いながら頷く。旅をすればするほど、なにかを知れば知るほどに、なにも知らない自分が不安になっていく。
知らないということは、知らないものがあると知らないことなのだ。
清は、京士郎の頬を突く。
「だったら、さ。私のこと、知ってみる?」
「……は?」
振り向くと、妖しい笑みを浮かべていた。
まただ。昨日も感じたもの。背筋に走る、空気とは違う寒さ。鬼とも違う、恐ろしい感覚。
京士郎が驚いていると、清ははっとした顔をして、居直った。
「や、やだ。私、なに言って……ごめん、忘れて!」
「それは構わないんだが、あいつらはどうする?」
「え?」
清が、京士郎が指差した方を見る。
そこには数人の巫女たちが、こちらを見てなにやらひそひそと話している。笑っているようで、とても愉快そうだ。
「こ、こらっ、からかわないの!」
顔を真っ赤にした清が怒鳴る。巫女たちは怖がりもせず、笑いながらどこかへと行った。
京士郎はそれを見て笑う。こういう平和もいいものだ、と思った。
「……騒がしいわ。なにかあったの?」
志乃が眼をこすりながら起きてきた。気まずそうな顔をする清。
「な、なんでもない! ごめんね、起こしちゃった?」
「いいの。寝坊するよりもね。さあ、準備しましょ」
切り替える、と言って志乃はまた部屋へと戻っていった。
清はいたたまれないと言いたげな顔をして、京士郎を見た。俺にはどうすることもできないぞ、と京士郎もまた部屋へと引っ込んだ。




