肆
女は体力が戻ってないのか、あれから粥を少し食べて再び寝た。
京士郎は養父である老人とともに、母の墓を訪れていた。
幼い頃はよく共に訪れていたものだが、いまでは京士郎の支えなしでは山を登ることもできなくなった養父に、京士郎は一抹の寂しさを覚える。
石が積み上げられただけの簡素な墓の前で、養父は手を合わせた。
「ここに来るのは、いつぶりかの」
「俺は毎日来てるから」
「はは……親孝行な子だ」
普段は口数の少ない養父の、珍しい言葉。
いつもと違う様子が、京士郎の胸に熱いものを感じさせた。
「なあ、爺はどうして、俺をあの女と行かせようと思ったんだ?」
「ふむ……」
養父は顎に手を当てて考えている。
「お前は前から、ここを出たがっていたような気がしてな」
「俺が?」
「そうだ。京士郎にはここが、とても窮屈なんじゃないかってな」
「それは」
京士郎は息を呑んだ。
否めない。京士郎はその感覚を否定することはできなかった。
山は好きだ。大きな木々に、土の香り。獣たちを追うのも戯れるのも楽しい。
里は好きだ。自分は馴染めなくとも、そこに人がいるというだけで、わけもわからず胸が締め付けられるときがある。
だが、しかし。
自分の居場所はここではないのではないか、そう感じることがあるのは、事実だ。
「京士郎は優しい子になったの」
「そう、なのか?」
「うむ。京士郎、お前は人とは違う。けれど、人の子じゃ。爺の子じゃ。だから、いいのだ。里の子らは親を支え看取るのだろうが、お前は違くていいのだ」
京士郎は、自分の目頭が熱くなるのを感じていた。
たくさんの人に迷惑をかけてきた。ただ力を振るうだけで「物の怪に憑かれている」と言われた。
人とは違う。そういう風に自分は出来ているのだと、京士郎はずっと思っていた。
しかし、養父は言った。自分の子だから、お前は他と違うのだと。
その言葉だけで京士郎は救われた気がしたのだ。
「爺。俺はお前が好きだ。婆も好きだ。だが、ここを離れたい、遠くへ行きたいという気持ちがある。すまない、すまない」
「いいんだ。何かあれば、ここに帰ってくればいい」
「いいのか、帰ってきて」
「それが家というやつだよ、京士郎。お前がいつもしていることだ。外に出て、帰ってくる。それだけだろう?」
養父が言った。京士郎はいよいよ感情が隠せなくなった。それと一緒に、ストンと、自分の中で何かが落ちた気がした。
「爺……俺は、行く。あの女と、行くぞ。精山とかいう坊主を見つけ、もう鬼に脅かされなくていい世にする。俺がこの力を持ってるのも、いや、俺が生まれた意味がそこにあるかもしれん」
「それがお前が決めたことか」
ふふふ、と養父は笑う。
それは穏やかな、とても穏やかな笑みだった。
これでいいのだ。京士郎はそう思った。
「さあ、母親に別れの挨拶をしなさい」
「ああ」
養父は背を向けて去っていく。
残されたのは京士郎、そしてもの言わぬ母の墓だった。
京士郎は母の墓に向かい、手を合わせた。
旅立つこと、自分を産んでくれたことへの感謝。
無言のままに、伝えていく。
ふう、と息を吐いて、京士郎は立ち上がった。
「おいおい、儂への別れの挨拶はなしか?」
そう言って、木の上に姿を見せたのはいつもの天狗であった。
愉快そうに笑って、京士郎を眺めてる。
京士郎は天狗を、興味なさげに見た。
「あるかよ。お前のことだ、面白そうと言って勝手に付いてくるだろう」
「かっかっか、よくわかってるではないか。時に京士郎、初めて人と関わって、どうだ? おおっと、余計な勘ぐりはするなよ? いずれお前さんに転機が訪れることは、顔の相から見て取っていた。だがそれを儂が仕組んだということは断じてない。言わばこれは、なるべくしてなった、じゃ」
「聞いてもないことをべらべらと」
京士郎は呆れて、ため息もでなかった。
しかし、いつもの調子の天狗を見て、少し安心してしまった。
だから、少しだけ京士郎も笑ってみせる。
「俺は行くぞ。お前の言うことはわからん。人と関わって、どうなるかなど。だが、ここから出なければ見えないこともある」
「ほほう、すっかりいい顔をしておる。いやいや、元からいい顔はしているんだ。あの女に付いていけば、きっと多くの出会いがあるからな。そのうちに、やんごとなき御方に近づくことも叶うかもしれん。そのときのために笛や舞をだな」
「じゃあ、行くぞ」
「な、聞かないんか!? 儂は少し傷ついたぞ!」
京士郎が歩き始めると、天狗はそう喚き立てる。
強い風が吹いた。京士郎は咄嗟に目を庇う。
そして、後ろを振り向く。さっきまで天狗が座っていた木に、その姿はなくなっていた。
* * *
翌朝、日の出よりも早くに女は先を急ぐと言って立ち上がる。昨晩の弱り具合が嘘のように歩き回る姿は、老夫婦も驚いていた。
京士郎もまた身支度をする。と言っても、着物や履物を一番マシなものを選ぶだけである。
「……本当は反対なんだけれども」
女は、準備を整えて表で待っていた京士郎にそう言う。
京士郎も薄々気づいていたが、女は老夫婦の説得に応じたものの、本心は違うようだ。
「私の名前は志乃。これから貴方を従者として扱き使ってあげるから、覚悟しなさいね」
女は京士郎に名前を預けた。志乃、と名乗った彼女の姿を改めて見た。
自分はいま、この女に仕える従者となった。身分に違いがあるし、その方が色々と通りやすいだろう。
そういえばまだ、きちんと名乗っていなかったなと思い出し、京士郎もまた名乗った。
「俺は京士郎。よろしく頼む」
「……京士郎、ね」
志乃は名前を繰り返した。老夫婦から何度も聞いていただろうから覚えているだろうが、志乃から呼ばれたのは初めてだった。
京士郎は改めて家の方を向く。老夫婦が揃ってそこにいた。
老婆が前に出てくる。手には小さな小包が握られている。
「これを持ちなさい」
老婆が手渡してきたのは一つの包み。京士郎はそれを受け取る。
「これは?」
「中には黍団子が入ってる。次の村まで遠いから、途中でお食べなさい」
それはありがたい、と京士郎はしっかりと包みを持った。
続いて女が、刀を京士郎に渡した。
「これを貸してあげるわ。私が姫様から預かったものなんだから、大切に扱いなさいよ」
「……ああ」
京士郎は刀を受け取って、腰に帯びた。作法などはわからないが、動きやすいように足の邪魔にならない風にした。
旅立つ準備は、これで完璧だ。
京士郎は並んで立つ二人の老夫婦を見る。間にある距離はこれから遠くなる一方である。寂しさは感じるが、不思議と旅立つことを躊躇う気持ちはない。
何と言おうかと、口を開いては閉じることを繰り返す。言葉が上手くまとまらない。
すると、志乃が京士郎を肘で突いた。早くしなさい、と急かされているのか。それとも、簡単でいいから、と諭されているのか。
京士郎は頷いて、簡単に一言だけ。
「行ってきます」
そう言って、二人に背を向けた。振り向くことはない。
二人はずっと自分たちを見ているのか。それともすでに家へ引っ込んだのか。
わからないが、京士郎はただ前に進むだけだった。
志乃も何も言わず、京士郎の隣にいた。人一人分の距離をおいて歩く彼女は、すでに元気なようで弱っていた姿の面影もなかった。
これなら安心だ、と京士郎は心のうちで呟いた。
「まず、どこへ行くんだ?」
京士郎が聞けば、志乃は行き先を指でさす。
「東へ。聞いた話では、不破関の向こうに精山様がいらっしゃるそうよ」
東へ、日の出の方へと京士郎は向く。山間から昇るまばゆい朝日がそこにはあった。
この先にある不破関。京士郎はそこまで行ったことがない。未知の場所へ踏み入れることに、心を踊らせる。
「参りましょう」
志乃はそう言った。凜とした表情を朝日が照らし、白く輝いて見える。
暁の立つ方へ二人は歩きだす。
不揃いな二人であるが、この旅は果てしないものになる予感が京士郎にはあった。




