壱
それからしばらく経った。
京士郎と志乃ははるか東へと進んで行く。京を越え、はるばるやってきたのは、富士。
向こうに見えるのは、白い冠を被った大きな山。
その前に広がるのは樹の海。それさえも白に染まっている。
京士郎はそれを眺めて、息を漏らした。
どうにも、この森の気配は恐ろしかった。たくさんのものが彷徨っているようで、そしてそれが見ているようで。
志乃もまた、顔を強張らせている。
「ここから先は神域よ」
「神域?」
「神様がいる場所ってこと」
「あの綿津見がうようよいるってことか」
「ええと……」
志乃は少し言い淀む。京士郎が首をかしげると、言った。
「古き時代、朝廷が生まれる前……天より瓊瓊杵命が降りられるまで、この世は国つ神のものだった」
「国つ神?」
「そう、遍くこの世に偏在していた神たち。そしてこの森は、彼らが住まう場所」
重々しく、志乃はそう言った。
国つ神。かつてこの地上を支配していた者たち。
人が見出す前よりずっと存在し、恐れられていた者たち。
そして理解する。ここは酒呑童子のいた大江山に近いのだ。鬼ヶ島が鬼無里であったように、この森は大江山なのである。
自分の中にある血が騒いでいる。沸騰しているようだった。高揚している、と言えば聞こえはいいだろうか。
京士郎は己の中にあるものを抑え込んだ。
「この先に浅間神社の、秘殿があるんだな」
「そうよ。私たちの目的地。でも、ここからは彼らの領域よ」
「安心しろ、俺にはこの星兜がある。お前も打出の小槌は持ってるな?」
志乃は腰に提げた小槌を手に取った。神器に匹敵する力を持つ打出の小槌は志乃をきっと、神域の気配から守ってくれるだろう。
京士郎とて、星兜があれば他者の領域を侵しても影響を免れることができる。
二人は森の中へ入っていった。
気の遠くなる森。奥まで続く木々。
京士郎でさえ、方向の感覚が狂いそうだった。
地上まで届かない日が虚しく、しかし降り積もった雪は眩しい。
その雪に足をとられ、思うように進むことができない。
いいや、それだけじゃない。溢れる神威が、京士郎たちの体を蝕んでいるのだ。
志乃は早々に息を切らした。京士郎が何度か声をかけ、手を引くことでどうにか意識を保っている。
「京士郎、京士郎」
「意識はあるか?」
「違うわ! 貴方、気づいてないの!?」
志乃は京士郎の腕を掴んだ。その掌には、鱗があった。
蛇の鱗だ。雪と同じく白い鱗だった。
気づいたときには痛みがあった。腕の感覚が、違うものに支配されているかのようだった。
「そうか、この空気は人を追い出すものじゃない。こうして戻してしまう力なのよ」
「戻す……?」
「貴方の中にある血が、こうさせているように。きっとこの森は、人も、ものも、こうして戻してしまう。在りし日の姿か、自分の中にあるものに……。ああもう、こんなことを言ってる場合じゃないのに!」
そう言って志乃は、水筒を取り出して中にある水を京士郎にかけようとした。
しかし、その水も凍ってしまっている。残っている量もわずかだったからだ。
志乃は今度は符を取り出した。そして京士郎の手に貼って、指を這わせた。符が力を持つ。腕の痛みが引いていったのがわかった。
だが、これは気休めだった。治癒には至っていない。
京士郎の手を握って、志乃は歩いた。京士郎もまた、志乃の手を引いていった。
「くそっ」
自分の情けなさに、思わず言葉が漏れた。志乃と目が合う。そこで心が落ち着いた。
こんな雪の中では傷を癒す清浄な水もなかなか探せない。
京士郎の意識が少しずつ遠のいていく。体力は志乃よりもあったが、精神においては京士郎の方が衰弱していた。
すると、新たな気配があった。いいや、元あった気配がますます大きくなったのだった。
「こんなところに、珍しい客人だ」
そう言ったのは、ある者。綿津見の遣いと名乗った者によく似ていたが、異なるものだった。
白い衣をまとった者。雪の中にあって消えてしまいそうだが、確かにそこにいた。
「……地に連なる者よ、我が血の者よ。どうして迷うのか」
「それは」
京士郎はもはや、言葉を語ることもできないほどに消耗していた。
代わりに、志乃が答える。
「この雪の中では見つけることは適いません」
「いいや、わかるはずだ。なにせ、ここはお前の故郷なのだからな」
志乃は、え、と驚く。京士郎は、この者は最初から志乃に語りかけていたのだと思った。
そう言ったっきり、語った者は消えていった。
だが、不思議なことに志乃の迷いはなくなったようで、まっすぐ歩き出した。
森の奥にある洞窟まで。




