弐
船乗りたちはあの渦潮から逃げようとしているのだと、理解する。
「おい、どうしたんだ」
京士郎が話しかけると、船乗りが言い返す。
「あんな渦潮、見たことねえ! まるで俺らを食おうとしているみたいだ!」
彼らでさえ、経験したことのないほどの渦潮。思わず悪態をついてしまうのも、頷いてしまう。
志乃は息を飲んで、渦潮を眺めていた。京士郎は妙な違和感を覚えた。
それは渦潮についてである。船は間違いなく進んでいるのに、渦潮から離れることができない。まさか、と思うより先に口が動いていた。
「渦潮が俺たちを追ってきている?」
「そんな……ッ!」
志乃が揺れで倒れそうになるのを、京士郎は支えた。
明らかに渦潮は船を追ってきているし、その速さも船より早い。呑みこまれるのも時間の問題だった。
そこでの志乃の動きは不審だった。何が、とは言えないが、落ち着きがなかった。
しきりに辺りを見渡せば、泣きそうな顔で大丈夫、と唱える。京士郎はその異変に気付いていたが、気が動転していると思った。
腕を引っ張ると、「きゃっ」と悲鳴をあげて志乃は京士郎の腕の中に収まった。揺れる船に、大きく鳴る渦潮のせいで声が上手く聞こえないが、これだけ近づけば話しくらいはできるだろう。
「おい!」
「何よ!」
「いまどうなってるかわかるか!」
「わからないわ……綿津見様の怒りだとでも言うの!?」
志乃がそう言った。京士郎は、志乃の言葉に引っかかりを覚えた。
「その、なんだ、わだ……?」
「綿津見様! 端的に言うと、海の神様よ! 知らない? 倭建尊が東征の折、航路を妨げる嵐を起こしたの!」
「知らん! が、わかった!」
自分の感じていた事は正しいと理解した京士郎は、志乃を置いて船頭へと向かった。口々に静止の声が聞こえるが振り切って、立っていた。
今や船は、渦潮の中へと向かっていた。大きな口を開いて、呑みこまんとしている。
傾いた船であるが、京士郎はその上で唯一まっすぐ立っていた。
そして渦潮の口へと向かって叫んだ。
「綿津見とやら、俺に用があるんだろう! ここにいる者は俺やお前のように強くはない、持たざる者たちだ! 巻き込むのもいい加減にしろ、叩っ斬るぞ!」
刀を抜いた。その閃きが渦の中心を照らすと、やがてそこに一人の男が現れる。
男の姿が露わになると、渦は一層強くなった。その中で京士郎だけが男の姿をきちんと見ていた。
勇壮たる姿である。けれども、酒呑童子などと比べればいささか劣る。京士郎は、戦おうと思えば戦えると思った。
「私は綿津見様ではない。その遣い、竜宮の者である。水の子よ、激しい川の流れをその身に宿す者よ」
「父のことを言っているのか」
「いいや、お前のことだ」
男はそう言った。敵意はないようだった。
「お前はこれから、幾つもの苦難を乗り越える羽目になる。多くの手を借りながら、きっと乗り越えることができるだろう。だが、そうはならない未来もある。そして、どんな先が待っているとしても、お前は大きな悲しみと出会うことになる。そこでだ、お前の運命を変えてやろうと、私の主人は仰せだ」
何を言ってるのか、京士郎にはさっぱりわからない。
しかしそれは嘘ではないのだろう。運命を変えることを約束するし、運命を変える力だって持っているのだ。
荒れる海が、さらに荒れる。渦はより早く。このままでは船が壊れてしまうのではないかと思うほどに。
「何より、我らの主人はお前を気に入っている。大江山の鬼神をその身で倒して見せたことを大きく評している。三界一の美姫であられる、己の娘すらも差しだそうとも言っている。どうだ?」
京士郎は悟る。彼らは自分たちに与しろと言っているのだ。
それも、京士郎の未来を人質に。さらに言えばこの船に乗るものすべてを人質に。
大きな悲しみとは何なのだろう。自分の運命とは何なのだろう。
わからなかった。そして、わかりたくなかった。そんな疑問は、目の前の理不尽へ怒りとなって向けられた。
「勝手なことをごちゃごちゃと」
京士郎は、吠える。
「何を決めつけてるんだ、わかったような口を利くんだ! 例え何が待っていたとしても、俺は立ち向かう!」
「それがお前の決めたことか」
「そうだ!」
言い切ると、男は残念そうな顔をした。「馬鹿な選択をする」と言ったがその声音は失望の色はなく、むしろ観念したかのようだった。
「その覚悟こそが、お前なのだろう。だが、忘れるな。お前に待っているものは……」
そして、渦潮は収る。男の姿は一瞬にして海に沈んでいった。
海は時化る。京士郎は肩で息をしていた。張り詰めていた空気に、呼吸すらも忘れてしまっていた。
呆然とする船員たち。京士郎は膝から崩れた。志乃が京士郎を支える。
「京士郎! 大丈夫? いったい何が……」
「言ったろ。任せろってな」
そうは言ったが、危うかった。
そしてそれ以上に、たくさんの疑問が生まれた。
志乃の様子も、海の様子も。京士郎の胸に、一抹の不安が生まれた。




