壱
京士郎と志乃は川を下ってたどり着いたのは、須磨だった。
ここから先、瀬戸内海に出るには大きな船が必要とのことだったが、それについては京からお触れが出てすでに用意されているそうで、二人は安心して港へ向かった。
「これが海か」
京士郎は海を見たのは初めてだった。
無限に広がるような青に、恐れすら抱いた。
鼻に香ってくる潮がどうも痒いが、それすらもこの海の広大さを示しているようにすら思えた。
ふう、と隣からため息が聞こえた。志乃が隣に立っていた。
「お前も海は初めてなのか」
「ええ。修行していた頃はずっと京にいたし、旅も山間をずっと歩いてたし。瀬戸内の海は風光明媚で有名なのだけれど……うん、とても綺麗」
うっとりとしたように、志乃は言った。京士郎は再び、海に目を移した。
確かに美しい。背後から昇る日の光を波が写して、美しい石が散らばっているようにすら思えた。
しかし、これからのことを考えると、目の前のことに感心してばかりもいられない。
今からこの先にある鬼ヶ島へ向かうのだが、そこには問題がいくつかあった。
その一つがこの海である。潮の流れがはやく、船で進むのも困難なのだと聞いていた。
京士郎たちはまず、この海に挑まなければならない。
そのことに震えるが、だがここで止まるわけにはいかない。この海に挑むなど、序の口なのだから。
「ねえ、あの島を見て」
志乃が指差したのは、他の島と比べてもずっと大きな島だった。
「あの島は、伊邪那岐命と伊邪那美命、国を造った二人の神様が最初に産んだ島なのだそうよ。あそこを最初に作り、次に伊予、その次に隠岐、筑紫……ってね」
「ふうん……」
あの島は、二人の神が最初に産んだ島。試しに作って、その試みからいまの陸地が生まれた。
ある意味で始まりの場所である。そう思うと、感慨深く感じた。
ずっと前に天狗が語ったことを思い出した。『この国は色恋から生まれたんだ』などと。そのときは、いつもの説教かと思って聞き流していたが、いまは少しだけ知りたいと思った。
(いったいどんな色恋をすれば、こんな美しい景色を生めるのだろうか)
そう思って、酒呑童子と茨木童子の顔を思い浮かべる。国を作ると言った彼の野望、そこにはどんな景色があったのだろう。
次いで志乃の顔を思い浮かべて、悪戯っぽく笑う姫を思い出す。
もはや呪いだな、と京士郎は思った。別れも出会いもずっと付いて回る。
「行きましょう、日が暮れた海は恐いわ」
「そうだ。それに、そろそろ出発の頃合いだろう」
時刻は朝方。日が昇って間もない頃。出発の頃である。
二人は港に泊めてあった、自分たちが川を下ったものよりも大きな船に乗り込んだ。
寝泊まりまでできる間まであり、充実していた。
いよいよ船出である。ゆっくりと、けれども前のものよりずっと快適な出発だった。
二人で語らいながらも進んでいくこと幾ばくか。落ち着いたらしい船乗りが、話しかけてくる。
「お二人さん、この先にある渦潮について知ってるかい?」
「渦潮?」
京士郎は首を傾げた。志乃は知っているようで頷いた。
「ええ。とりわけ狭い、鳴門の渦潮のことね」
「そうだ。どうも、最近そいつがよく暴れているらしくてな。油断しちまえば船がひっくり返ることだってある」
「それは……」
「おおっと、不安にさせちまったか。大丈夫だ、大きく避けていくつもりだからな。ただ揺れるから恨まないでくれよって話だ」
元気のそう言った船乗り。京士郎はふと、海を眺めた。
渦潮と関係あるかわからないが、海の底に何かがいるような気がしているのだ。その大きな気配に飲み込まれるような感覚さえしている。
しかしそれは不思議と、嫌な感じではない。むしろ温かさも感じるが、はたしてそんなものなのだろうかという疑念もある。
「その渦潮の底には何があるんだろうな」
京士郎はぼそりとそう言った。
船乗りは京士郎の言葉に驚いて、苦笑いをしながら答える。
「はは……大きな魚たちに食われるのが積の山ですぜ」
「そうか」
京士郎は短く、そう答えた。
さらに時が進み、船が揺れ始めた。潮の流れに捕まったのだろう。縦への揺れは、川を下った際に比にならないほどに激しかった。
その時点で二人はまったく動じることはなかったが、どんどん揺れが大きくなっていき、そこで不安になって甲板に出たのだった。
船乗りたちが櫂で漕ぎ、あるいは帆を操り、船をどうにかして動かそうとしている。
ただならない様子だった。先ほどの船乗りの口ぶりだと、渦潮があっても平気なようであったが。
これが彼らの考えうる以上に事態なのかもしれない。京士郎は海を見るべく、縁まで向かった。
「見て!」
志乃が指差した先を京士郎は見た。
そこにあったのは船ごと呑みこまんとしている巨大な渦潮だった。




