拾伍
なぜ、そのようなことを言ったのかわからなかった。
京士郎は鬼を数多斬ってきた。それも、己の背負うものとして斬ってきたのだ。いまさらその荷を下ろせるわけがない。
だが……それはとっても、魅力的な誘いに思えたのだ。
いくつもの理由があった。
なにより、京士郎は鬼を倒すという誓いがあったが、それは己が人であればという前提に基づいている。他者を思わずに生きることができれば……鬼に体を委ねることができれば、それほど楽なものはないとすら思った。
京士郎の脳裏に過る、人の顔があった。郷里で、猪を素手で倒した時。彼らは京士郎という存在に恐怖を覚えた。その顔をよく覚えている。
人とは違うのだ。自分は人と違い、人を脅かす存在なのだ。
(人ではないものになってしまえれば)
何度そう思ったことか。ずっと逃げ出したかったのだ。養父母の優しさでさえ、苦しく思っていた頃があった。
「ああ、お前の考えていることが手に取るようにわかるぞ。京士郎、お前は人より体が頑丈にできている。故に勘違いされてきたのだろう、その脆さに気づかれなかったのだろう。他者を思いやることを覚えてしまったから、身動きができずにいたのだろう。もういいのだ。我らと来い。我ら兄弟が手に手をとり、我らの家を作ろう」
京士郎は家族を知らない。酒呑童子と茨木童子という二人が兄と姉としていると思えば、どうしてか救われた気にもなる。
甘い言葉に、頷いてしまいそうになる。首が縦に振られそうになる。
「この小娘を人の世に返すのもいいだろう。何ならお前の手飼いにしてもいい。この小娘の寿命が尽きるまで共に添い遂げても構わないし、瑞々しいうちに味わって捨てるのも勝手にするがいい」
その言葉で、京士郎は視線を志乃へと移した。
彼女はどんな顔をしているのだろう。こんな自分を見て、どう思うのだろう。
————ここにきて、酒呑童子は大きな失敗をしている。それは京士郎の心は志乃を追っているのではなく、志乃によって支えられていたということを見抜けなかったのだ。
(どうして)
京士郎は志乃を見て、目を見開いた。
彼女の瞳はまだ強かった。折れてなどいなかった。何か策があるのだ。
(どうして、そんなに強くいられる!)
志乃の強さは、京士郎の強さであった。
彼女を信じると決めているから、ついて行けば何かあると思ったから、京士郎の旅はあった。
(お前が諦めないなら、俺も諦めない。俺のできることをするだけだ)
折れそうになった心が持ち直す。志乃という支柱が折れていないのだから、京士郎が折れるはずがないのだ。
「さあ、どうする、京士郎」
「俺は」
京士郎は、酒呑童子を見た。
よく似ていると思った。それはいつか、池の水と月の光に暴かれた己自身の姿。鬼になった、己の顔とよく似ていた。
だからこそ、京士郎は酒呑童子のことが気になって仕方ない。そして酒呑童子も同じなのだ。
そう、それは……。
「断る」
「ほう、それはなぜだ」
「まだ諦めてないやつがいるからだ!」
京士郎は駆け出した。同時に、志乃もまた飛び出した。
酒呑童子は驚き目を剥くが、素早く反応したのは茨木童子だった。志乃を追うようにして、茨木童子の炎が迫ったが、その炎が志乃を焼くことはなかった。
京士郎の眼力が、茨木童子の炎を返した。驚くほどの神通力だった。
互いに手を伸ばす。届く。そして手は結ばれた。
「京士郎!」
「俺はここにいるぞ!」
隣を並んで歩きたいと志乃は願い、いつの間にか京士郎もそうあってほしいと願っていた。
ああ、そうだった。こんな簡単なことだったのだ。
「お前……どこからその力を」
茨木童子も、酒呑童子も、その顔を歪ませた。事態が理解できない。たかが人に逃げられたことも、京士郎に術を返されたことも。
「わからないだろう。俺にもわからないんだからな。だけど、ああ、だけど! 俺はもう、背負っちまった。こいつを託され、俺は俺の生きる意味を見つけると決めたんだ! ここで鬼に負けるわけにはいかねえんだよ!」
それは意志だった。京士郎は、ここに立ったのだった。
刀を抜いた。銀色に輝いている刀が、まるで闇を払うかのように眩しく光った。
「いくぞ。もはや言葉で、俺の膝も心も折れぬと知れ!」
京士郎は刀を振りかぶり、駆け出した。京士郎に向かって、炎が伸びる。
その炎は腕の形をしていた。狙いは顕明連だった。刃を掴むと、潰す勢いで燃やした。
「ならばまず、その刀を折ってみせよう!」
京士郎の動きが止まる。炎の腕は刀を掴んで離さない。だがそれは、京士郎に捕まっているとも言うことができる。
そんな京士郎の後ろ、志乃の口から呪文が響く。それは麗々として、大江山に響いた。
「帝釈天よ、御身の槍をいま授からん。悪神悪竜悪鬼を討ちし光をここに。暴威を持ちて力とし、正義を持ちて我が業とす……急急如律令!」
志乃がいままで放った技の中でも最大のものが、いま振り下ろされようとしていた。
雷鳴が響く。遥かな空から、一条の熱が降ってきた。




