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かぎろひの立つ  作者: 桂式部
第五章 むべ山風を 嵐といふらむ
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 志乃が連れ去られてしまった。その事実は京士郎に重くのしかかった。

 考えもしなかったが、自分が志乃の近くにいればそんなことにはならなかったと思わずにはいられなかった。

 騒ぎを知った泰明は何も言わず、京士郎を労うだけだった。可愛がっていた弟子が攫われたというのに、涙一つ見せず、表情一つ変えずに指示を出していく。

 京士郎は今にも飛び出しそうだった。大江山へと足を向けたくて仕方なかった。

 それを抑えたのは、他ならない泰明と精山だった。大江山へ行くには、相応の装備が必要であるし、一人で大江山にいる鬼すべてを相手にすることは不可能であると。

 京士郎は部屋で一人、ずっと考えていた。己の弱さを嘆いた。

 考えても考え足りない。もっと強ければ、早く茨木童子を倒し、志乃の元へと帰っていれば。きっと志乃は攫われないで済んだ。

 もっと力があれば、茨木童子も酒呑童子も、倒せる力があれば。

 そのたびに右手が痛んだ。鱗が浮かび、そのたびに右手を払い、消す。まるで感情の暴走を咎めるように、右手が痛んだ。

 人であることも許されず、鬼であることも許されず。弱くあることも許されず、強くあることも許されず。

 京士郎はそのたびに、泣きそうになった。養父母に会いたくなり、思い切り走りたくなり、幻の母に縋りそうになり、せめて鬼でさえあれればとすらも思った。


(志乃を失うことがこれほどまでに辛いものだなんて)


 いまごろ、どうしているだろうか。食われたか、犯されたか。どちらも想像したくなかったが、茨木童子の言葉が蘇る。「偽りは申さぬ。真には受けるな」。であるならば、志乃は生きているはずなのだ。手を出されていないはずなのだ。

 それが京士郎の、唯一の慰めだった。明日になれば、風より早く走り、大江山へと向かう。

 決意だった。京士郎は日がな一日を費やし、その結論へと至った。

 すると、縁側に童がいることに気づいた。誰かの遣いだろうか。京士郎が手招きすると、寄ってくる。


「誰の遣いだ?」

「三条の姫より、貴方様へと」

「俺にか」


 書状を渡され、京士郎は開いた。そこには文字が書かれている。

 思わず、京士郎は突き返した。


「どうされましたか」

「読めぬのだ、俺には。代わりに読んではくれないか」


 童は頷くと、文面を読んで、顔を曇らせた。京士郎は首を傾げた。


「どうした?」

「貴方様は、歌がわかりますか?」

「歌か。いや、わからん。言葉で景色を浮かべるというのは知っているが」

「わかりました。お伝えしますと、姫様は貴方様にお会いになりたいと。女から誘うという不埒な真似をお許ししてほしいと書かれています」

「何?」


 京士郎は驚いた。すぐに行こうと立ち上がると、童は手で制止した。


「夜になれば、人の目が減ります。その頃に訪れてください」

「いまではいけないのか?」

「姫様のお考えを私が推し量れるはずがありません」


 それは誤魔化すための方便だ。京士郎はそう思った。

 しかし、その約束を受けた京士郎は、どうしてか寂しさが少しだけ和らいだ気がした。


「わかった。姫さんに伝えてくれ。必ず行くと」


 童はそう頷いて、去っていく。京士郎はそのときまで、待つことにした。




   *   *   *



 

 夜になり、京士郎は静かに屋敷を抜け出した。

 三条の屋敷に向かうと、音を立てないように塀を乗り越えて入った。

 すると、一人の童が目に入った。昼に見た者とは違う。その童は驚きながらも、京士郎を案内した。

 ある一室に着く。御簾がかかっており、中の様子を伺うことができなかった。そういえば、顔を見てはならないと言われていたなと思い出す。


「ようこそおいでくださいました、京士郎様。お呼びつけして申し訳ありません」

「いや、構わない。そっちが来るより、俺が一人で来た方が楽だろう」

「ふふっ、そういう意味ではないのですけれど」


 姫は笑った。京士郎は何がおかしいのかわからなかった。

 人の気配が遠ざかっていく。どうやら姫は、人払ひとばらいをしたらしい。

 それをぼうっと眺めると、中から息を吐く音が聞こえた。それはため息ではなく、緊張をほぐすような息であった。


「今日お呼びしたのは、他でもありません。志乃のことを少し、お話ししようと思いまして」

「あいつのことを?」

「はい。幼い頃からの付き合いですから」


 くすくす、とこんな状況にもかかわらず、姫は笑った。

 しかし、京士郎もまた、志乃のことを知りたいと思った。いままでそんなこと、微塵も思ったこともないのに。


「本当は良くないことですが、志乃は絶対に話さないでしょうから、しばし語りましょうか。私の知っている志乃を、貴方に託します」


 そう言うと、姫は語り始めた。それは遠い昔ではなく、ついこの間までの話だった。

 京士郎は静かに聞いた。姫の声の他には、風も聞こえない夜だった。

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