捌
時間は過ぎていき、夜になる。
京士郎は泰明の屋敷にいた。食事を終えて就寝の時間になったが、いまいち休めずにいた。
胸騒ぎがするのだ。それは何か、大きなことの起こる予感だった。
たまらず京士郎は部屋を出た。夜の京は、静けさに包まれていて、京士郎の吐息でさえ響いてしまいそうだった。
屋敷の庭をぼうっとして歩いていると、人影があることに気づく。
「京士郎?」
それは志乃だった。京士郎は安心してほっと溜息を吐く。
「何してるの?」
「夜風に当たりにな。お前はどうしたんだ?」
「私は……星を見てたわ」
「星?」
京士郎は空を見上げた。ちりばめられた星の輝きは、京士郎が暮らしていた郷里とも、旅の最中に見ていたものとも、変わらないように見えた。
しかし、確かに見飽きないものではある。日が暮れれば寝るような生活をしていたが、たまにこうして見上げると、新たな発見がいくつもあったものだった。
「ふうん。確かに、いいものだな」
「そうね」
「どうした、いつもより元気がないぞ」
「それは京士郎もでしょ」
志乃が言った。まったくその通りだ。
自分がいつもと様子が違うことを、京士郎は理解していた。慣れぬ場所に来たからと言えば簡単であるが、それは真実でないことを志乃はとっくにわかっているだろう。
「ふふっ」
志乃は笑った。京士郎はどうして笑ったのかわからなかった。
「ごめんね、京士郎でもそんな顔するんだって」
「そんな顔?」
「弱気な顔よ」
京士郎は自分の顔を触った。が、それで表情はわかるはずもなかった。
その様子を見て、志乃はまた笑った。いつもの元気が少しは戻っているように見えた。
おかしい、と志乃は言う。ならきっと、今の自分はおかしかったのだろうと京士郎は思うのと同時に、恥ずかしさを覚える。
「なあ、お前は恐くはないのか」
「恐いって?」
「死ぬかもしれない旅が」
それは、京士郎はついこの前まで、まったく思いもしなかったことだ。
酒呑童子に襲われ、体に呪詛が回ったとき、死を意識した。いままでたくさんの恐怖があったが、それは一際大きなものだった。
鬼と戦える自分でさえそうなのだから、志乃は果たしてどうなのだろうか。
「恐いわ」
志乃は言った。しかし、言葉に反して毅然としたものだった。
「なら、どうして」
「気になるの? 珍しい」
「いいだろ」
「私はね、私はここにいるんだって言いたいの」
それは京士郎が初めて聞いた、志乃の本音だった。
驚き、そして戸惑う。それに構わず、志乃は話した。
「私は、お父様もお母様も知らないのよ。おまけに才能もなかった。兄弟弟子でも、それでも何かあるはずだって思って……。私を良くしてくれる姫様がいて、師匠がいて、精山様を探すという大命を授かった。でも、まだ足りないの」
「足りない?」
「いつか、私は死んでしまうわ。みんな、そう。それまでに、何かを残したいの」
京士郎は志乃の話を呆然と聞いていた。
いつもの、感情を露わにしている志乃はどこへ行ったのやら。いま目の前にいるのが、本当に志乃かどうかすら、疑わしくなってきた。
「それに、京士郎もいるからね」
「俺が?」
「うん。負けないよ、京士郎は。最初は、一緒に旅するのは嫌だったんだけど……何も知らないだけで、いいやつだってわかる。まだまだ強くなるってことも。挫けても、立ち上がるってことも」
京士郎は、つい、志乃から顔を背けた。
負けてしまったのに、次の勝利を信じられる、その自信はどこからくるのだろうか。
志乃たちは、京士郎を強いと言う。京士郎は、己を弱いと思っている。いいや、京士郎の目には、志乃こそが強く見えていた。
最初はただの弱い者だった志乃が、いつの間にか大きな存在になっているのを、京士郎は感じていたのだった。
「ひとまずは、酒呑童子。その次は西方の鬼ヶ島。私たちの次にやるべきことははっきりしてる。だったら、その準備をしなくちゃ。師匠は、装備を明後日には用意してくれるって言ってるし」
「そうだな……そうだ」
京士郎の中で、迷いはなくなった。
いまだ恐怖はある。酒呑童子に負けてしまうことへの、恐ろしさはあった。
しかし、それは立ち止まる理由にはならない。誰かの足を止める理由にもならない。かつて自分が見つけた答えだ。
頷いて、京士郎は志乃に礼を言おうと思った。そのときだった。
「……この気配」
京士郎の首筋に嫌なものが走った。大きな気配が、近づいてきている。
それは間違いなく鬼だった。昨日の今日で、二度目の襲撃を仕掛けてきたのだ。
京士郎は顕妙連を握った。志乃の方を向くと、志乃もどうやら察したようだった。
「相変わらず、気づくのが早い……。私も準備したら行くわ。無茶はしないで!」
「わかった。行ってくる」
京士郎は一足で屋敷から飛び出した。塀などものともせず、飛び越えてみせた。




