捌
京士郎は池から上がる。すると、精山よりも先に、京士郎に駆け寄った者がいた。
「京士郎!」
それは志乃だった。京士郎の前に立つと、涙を目に浮かべているようで、潤んだ瞳を向けていた。
京士郎はどうすればいいのかわからず、たじろいでいた。
「すまん、その」
「いいの。私が悪かったんだから」
すっかり謝る時機を失ってしまった京士郎は、黙る他なかった。
一回だけ志乃は京士郎の胸を叩いた。それで十分だった。
結局、喧嘩なんてものは大したものではなかったのだ。同じものを見て歩いていて、ただちょっとだけ、寄り道をしてしまっただけで。
「ところで、お前はどこに行ってたんだ?」
「ここのお寺にいたのよ。でも、あの巫女がやってきて……たまたま星見の準備をしていた最中だったから、慌てて森に隠れたの」
そう言って志乃はいつもの笑みを浮かべた。
あの術は京士郎にとって絶好の時機を得て放たれ、そしてろくを封じた。それなりの長い時間を共にした志乃だからこそ、できた技だろう。
息の合った動きに、不思議な満足感があった。
ごほん、と精山が咳払いをした。京士郎と志乃は顔を上げる。
「京士郎、その子がお前の探していた者か」
「ああ、そうだ」
志乃は精山の方を向くと、一礼をする。彼こそ、志乃の探していた人物である。本当に用があるのは京士郎ではなく、志乃なのだから。
「貴方が精山様ですね。お探ししておりました」
「まさかこんなところまで来るとは、思いもしなかった。それで、何のようだ」
「こちらに文がございます。ご覧ください」
そう言って志乃は書状を取り出し、精山に差し出した。志乃は膝をついて、精山を待った。
開いて、精山は読み進める。京士郎は字が読めないから、じっとしていた。
読み終えた精山はその書状をたたむと、志乃の方を向いた。
「拙僧を探しているのは、どこぞの殿上人かと思ったが、よもや一人の姫によるものだとはな」
「姫様は、世を憂いでおられます。京も武士たちが蔓延り、政は滞り、そして鬼もまた……。打開の策を持つのは、この世に精山をおいて他にはいないと、師もまた占いました。ここで一度、手を貸していただけないでしょうか」
「ならぬ」
志乃の言葉を、精山はばさりと切った。志乃の体がびくりと震える。
「拙僧の知恵をあてにしようという者は、京にいたころからたくさんいた。そもどれもこれもが、どうしようもない、己の欲に溺れたものだった。殿上人だけではないぞ? 同じ修行の身の者たちもそうだった。失望したのだよ、京に。そんな者どもに託すものはない」
「そんな……」
ここまでの道程が無駄になる。それは京士郎としても、許せないことだった。
しかし、精山の言うこともわからなくはなかった。自分を利用しようという、他者の悪意に辟易としていたのだろう。呉葉やろくとの会話が、それを京士郎に理解させた。
「だが」
精山は言った。
「京士郎なら、別だ。拙僧には確かに、鬼を退ける……少なくとも、この世をどうにかする考えはある。そのためには京士郎が不可欠だ」
「俺が?」
京士郎は自分を指差して言った。頷いた精山。驚いて振り向いたのは志乃だった。
「確かな神通力を持つ、京士郎であるならば託すことができる」
「京士郎が……」
志乃は立ち上がって振り向いた。その視線が揺れ、京士郎に注がれていた。
わけがわからなかったが、嬉しさがあった。自分が必要とされていることに高揚した。
「とりあえず、京へ向かうとしよう。話はそれからだ」
「……! はい!」
志乃は顔を綻ばせて言った。その様子に、京士郎は安心する。
ところ、と志乃は京士郎に言った。
「あの、ろくとはどういう関係なの? 何か親しそうに話していたけれど」
「ああ」
京士郎は少し悩んで、答える。
「女について教えてもらったんだ」
「…………」
そう言うと、志乃は目を白黒とさせて、顔を赤くしたり青くしたりした。
「おい?」
「ば、ば、ば」
「ば?」
「馬鹿ぁぁぁぁぁあああああ! 心配してたのに! 謝りたかったのに! 貴方は本当に人の気持ちがわからないのね!」
「はぁっ!?」
夜の寺に、声が響く。喧嘩はしばらく止まりそうになかった。それを眺めている精山は苦笑いを浮かべるしかなかった。
* * *
京に向かってる道中のことだった。
精山、志乃から離れ、鳥を狩る京士郎。一羽を捕らえて、二人の元へと戻ろうとした。
そのとき、気配を感じて見上げた。
風と共に天狗がそこにいた。京士郎が何かを言おうとする矢先、天狗が先に切り出した。
「京へ行くなら急げよ、京士郎」
「何かあるのか」
「龍だ」
「は?」
京士郎は驚いて聞き返した。
龍。それは天狗から聞いた生き物。空を駆け、雨を降らし、ときには地に潜り、この世を好き勝手動くものであると。ときに人の味方をし、ときに人と敵対する。
「京の空に、龍が嵐としてやってきた。その嵐は京の北西、大江山にいる。急げよ、京がなくならぬうちにな」
そう言うと、天狗はいなくなった。京士郎はそれを聞き終えると、急いで二人の元へ向かった。




