肆
翌朝になる。女はすでにいなくなっていた。日が昇るより前に、女は部屋から出て行っていたのだ。
気づいたが止めなかった京士郎。去るなら勝手にしてくれと、そう思った。
起きて外へと出れば、そこには精山がいた。杖をついて、山をぼうっと眺めていた。
「ほう、早いな」
「お前に言われたくねえよ」
京士郎の朝は日の出と共にあったが、精山はそれよりも早いのだ。
体を伸ばして、精山の隣に並ぶと、精山はほうっと息を吐いた。
「すっきりした顔をしている。どうだ、昨晩は」
「そうか?」
言われてみれば、京士郎の頭はえらくはっきりしていた。それはろくのおかげだろうか。
志乃と向き合うきっかけをもらえたことで、いくらか気持ちが楽になったのは疑いようがなかった。
「いい機会だった」
「そうかそうか」
精山は満足そうに笑う。よもや、京士郎の心情を思い計ってのことだったのか。見た目からは何も感じないが、さすがは高僧と志乃が言っていただけあるか。
「さて、お前はこれからどうする?」
「これからか。とりあえず、志乃……お前を探している女を見つけないとな」
「…………」
今度は打って変わって、冷めた目を精山はしていた。
「京士郎、お前……」
「何かまずかったか」
「まずいもなにも、ううむ。まあ貴族たちは往々にしてそういうものではあるし、悪くはないか」
「何を言っているんだ」
京士郎がそう言うも、精山は答えなかった。
その代わり、精山は言った。
「そうなると、拙僧はお前とここでお別れだのう」
「何を言ってるんだ、首根っこ掴んででも連れていくぞ」
「ほう。昨日と言ってることがまるで違うではないか。悪いが、当て馬になる気はない」
「そうでなくとも、あいつの目的にはお前が必要らしい」
「ふうん」
精山がそう言うと、少し歩いて考える素振りを見せる。
いざとなれば、この僧を捕まえてでも志乃の前へ突き出すつもりだ。この僧に何が秘められているかはわからないが、彼女にとって必要なことがあるのだろう。
精山は振り向いて、歯を見せて笑った。
「嫌だ」
「……は?」
「まだ京に帰るつもりはない。奴らは未だ、己らが置かれた状況を理解できておらん。何を言ったところで無駄だろうな」
しかし、と精山は言って、京士郎を指差す。
「お前が一本、拙僧から取れれば話は別だ」
* * *
簡単な条件だ。京士郎はそう思っていた。
場所を山中へと移す。杖をついて何もしない精山に、木の棒を刀に見立てた京士郎。
しかし実際に手合わせをしてみれば、掠りもしなかった。
刀を無尽に振るったが、そのことごとくが避けられる。
ありえないのだ。京士郎は誰よりも早く、誰よりも強い。まず、同じ人であるならば、およそ京士郎には敵わない。
だがそんなこともお構いなしに、精山は避けていくのだから堪らない。
「おい、何でこんな条件を出した」
肩で息をする京士郎。精山はつまらなそうな顔をする。
「おいおい、この条件を飲んだのはお前だぞ」
「別に不満があるわけじゃない。次は当てる」
京士郎が距離を少し詰めて、そう言った。
精山は杖を前に出して、京士郎との距離を探る。それが妙に焦れったくなった。
「お前は拙僧からは一本も取れないだろうからな、これならば京へ行くのも逃れられるかと」
「舐めやがって……!」
京士郎がまた斬りかかるが、あえなく避けられてしまう。
さっきからこの繰り返しだった。
「はっはっは、いやいや、お前は十分に強い。だが、大切なことを忘れている」
「大切なこと?」
「そう。如何なる術とて打ち破られる。巧みな術も、お前のような未熟な術もな」
精山はこん、と地面に杖をついてそう言った。
京士郎は再び、木の棒を構えた。しかし、今回は当たる気がしなかった。
何かが違う。精山と鬼とでは、微妙にずれているのだ。そのずれを知ることができなければ、精山から一本取ることはできないだろう。
「なあ、京士郎。お前は強いな」
「なんだよ、急に」
「いやあ? お前は強い。それは誰も疑わないことだ。だが、それ故にお前にはわからないことが多すぎる」
「…………」
京士郎はそれを聞いて、構えを解いた。急にやる気をなくしてしまったのだ。
そして精山に背を向けると、とぼとぼと歩き出す。
「おい、どうした。来ないのか」
「うるせえ。……ちょっとしたら戻ってくる。そこを動くなよ」
そう言うと、京士郎は森の中へと消える。
忘れたものがそこにあるような気がして、ずっと歩いた。
精山から見えなくなっただろう距離を離れて、京士郎は木の棒を捨てた。
腰に提げていた顕妙連を抜いた。鈍い銀が輝いた。
そしてそれを大きく振り上げて、振り下ろそうとする。
「荒れているな、京士郎」
すると、空から声が聞こえた。同時に羽が舞った。
真っ黒な羽。京士郎はそこから、ある者を連想した。そしてそれは正しい。
「お前……!」
「会いたかったか?」
「別に」
「かっかっか、相変わらずじゃのう」
赤ら顔に長い鼻。背中に翼を持つ者。故郷で散々話した天狗がそこにいた。




