壱
京士郎は町を一人で歩いていた。
宿町というもので、旅の途中に立ち寄る町らしく、京士郎が見てきたいままでの町で一番賑わっていた。
それは人の多さであり、活気である。目ぬき通りには商店が並び、奥には宿が軒を連ねている。
なぜ一人で歩いているかといえば、ついに志乃と喧嘩をしてしまったからだ。
前から気が合わないことが多かったが、ここに来て大きな喧嘩をしてしまった。
しばらく頭を冷やせ、と言われ別れたのはいいものの、京士郎は町での過ごし方を知らなければ、金も持っていなかった。
山に潜り鳥を狩って、商店で交換したわずかな銭を得たが、京士郎は相場がわからない。
「にいちゃん、これ買っていきなよ」
そう言って物を押し付けてくる女。京士郎は無視して歩く。
ここは音があまりにも多すぎる。京士郎の耳はそれを逐一聞こえてしまうし、愉快なものであるとは限らない。
一人になれる場所があまりにないから、川辺まで歩く。そして川をぼうっと眺めながら、志乃のことを考えた。
京士郎は志乃のことが好きではない。決して嫌いでもない。
口うるさく、男だ女だと言って、京の作法を押し付けてくるときもある。自分を従者と紹介するのもそうだった。
彼女と共に行くと決めたものの、付き合いだけは上手くいくとは思えなかった。もとより、他人と触れ合うことをしてこなかったのだから当然と言えば当然であるが。
それにしても、と石ころを手に握りながら思う。
京士郎は志乃に何をしたのがいけないのかわかっていなかった。一体何が琴線であるというのか。何がきっかけでこうなったのかさえわからない。
ただただ、今までに溜まっていたものが一気に吹き上げ、あることないことを言ってしまった覚えはあった。
「……ちっ」
京士郎は石ころを振り被る。川へと思いっきり投げてやろう。あまり力を込めると石が砕けてしまうから、力を入れる具合が肝心だ。
しかし、そのときだった。背後に誰かがいる気配がした。
京士郎は石を投げるのを川ではなく、後ろにいる誰かへと向けた。
飛び跳ね、振り向く。右手は石を構え、左手で刀の柄を握った。
「ほう、いい勘をしている」
そう言ったのは、一人の老人だった。
その外見は異様だ。ぼろ布をまとっている姿は、京士郎の暮らしていた里の者よりも見窄らしく見えた。髪はぼうぼうと生えて雑だった。うってかわって欠けた歯でにやりと笑う様は不敵である。
「だが武芸はまだ甘いな。左手で抜いた刀ではすぐに応じられまい」
京士郎は一歩引いた。
雰囲気もまた異様だった。武芸者ではないが隙はない。瞳は京士郎の動きではなく、心の奥底を覗いてきているかのようだった。
手に持っている杖に目をやる。あれは体を支えるものではない。この老人の体幹を考えれば、まずそれはない。
「ほう、人を斬ったことはないか。血を知らないと見た。それにしては堂になっている。戦いを知っている顔だ。だとすれば戦った相手は獣か、あるいは……」
老人は次々と京士郎を暴く。
まずい、と思ったときには手遅れだった。
京士郎は悟る。この男の手口を。己の武を以っても敵わないということを。
刀で斬りかかるまでもなく、杖で殴るわけでもなく。
ただ言葉を投げるだけで京士郎を打倒しようと言うのだ。
「ああ、鬼か。はっはっは、納得がいったぞ。お前、鬼退治なんて馬鹿げたことをしておるのか。いいや、この気配、お前は混じり物だな? なるほど、お前はそれだけの力を持っている。だがそれは無駄なことだぞ」
「無駄、だと?」
老人の言葉に、京士郎は噛み付く。
確かに、志乃には「鬼を全て倒すことはできない」と言われた。しかし、いままで鬼を倒してきたことさえも否と言われてしまうのは、京士郎としては認めることができなかった。
「無駄よ無駄。人の心に魔がおる限りな。いくら鬼を討とうと、ああいうのは湧いてくるものなのさ」
「なら、お前は、鬼には一方的に食われろというのか?」
「いいや? そうは言っておらん。お前のやっていることはまさしく英雄の行いよ。ただ鬼を討つだけなら簡単だ。いずれお前ならこの世すべての鬼を相手取れるだろう。だが、それでは何も解決せんのだ」
老人は首を横に振った。
京士郎はいよいよ、我慢ができずに刀を抜きかける。だがそれをぐっと堪えたのは、志乃の言葉を思い出したからだった。
それを見た老人が笑う。
「賢明だな。誰かに習ったか、己を律する術を」
「……いいや、そういう約束だからだ」
京士郎は柄から手を話す。右手に握っていた石も落とした。
この刀では人は斬らない。鬼無里で志乃に言われたことだった。
ここで老人は、ようやく柔和な笑みを浮かべた。
「はっはっは、見事! よくぞ己の怒りを堪えた!」
「うるせぇよ」
京士郎はこの老人がどうにも、天狗に重なって見える。
余計なことばかりしゃべる姿が特に。
「なあに、面白そうな若造がいるとからかいたくなってな。歳をとるのは嫌だねえ」
「はっ……よく言う」
京士郎が鼻で笑うと、ほほうと老人は顎を掻いて笑った。
「時にお前、どうしてここにいる」
「…………」
京士郎は黙りこくる。
有り金は少なく、頼みの綱であった志乃とは喧嘩中。
はっきり言って、自分のことながら情けない。
「女にでも振られたか」
「ちげえよ!?」
「なあんだ。でも女関係には違いねえな」
歯を見せて老人は笑う。ぐっと、息を飲んで京士郎は答えなかった。
老人は京士郎の腕を引っ張る。
「お前にいいところを教えてやる。その代わり、ちょっと手伝え」
「何をだよ」
「いいからいいから」
老人に連れられ、京士郎は再び町に消える。
この日は京士郎にとって、一番長い日になりそうだった。




