漆
呉葉の屋敷を訪れる。
あいも変わらず異様な雰囲気を出しているこの屋敷。京士郎は首筋がむず痒く思っていた。大きな建物というのは慣れないものだ、と思った。
一室で待ってると、音もなく呉葉は現れた。
「よくお越しいただきました。村の騒ぎを聞けば、朗報であったとわかります。が、その浮かない顔を見ると、それだけではないようですね」
呉葉が京士郎と志乃の顔を見て言った。
京士郎は頷いて、答える。
「まず、あんたが言ってた巨大な鬼だったが、鬼ではないみたいだった。話せば聞いてくれたし、霧さえ払えばここから出て行くとも約束をしてくれた」
「まあ、それは……けれども、ままならない事情がおありですわね」
「でかいやつだけじゃない。……いや、あいつらはきっと、元はこの村の者だな」
「えっ!?」
志乃が驚きの声をあげた。呉葉は至って冷静に、京士郎へと問いかける。
「いま、なんと?」
「俺を襲ったのは確かに鬼だが、元はこの村の者であるだろうな、と言った」
「まさか、なにを根拠に」
呉葉は心外だ、とでも言いたげだった。
自分を慕う村人たちが、そんなことをするとは思っていないのだろうか。京士郎は滔々と語る。
「霧に入った者が陰気に当てられたか、霧の吸っているうちにああなったのか。訳はわからん」
「言いがかりを。この私を疑うのは構いませぬが、村の者たちはいくら貴方であっても赦しませぬぞ、京士郎殿」
怒りの形相を見せる呉葉。しかし京士郎は、その瞳になにも感じなかった。
逆に睨み返す。その中を覗くように、暴くように。
嫌な空気が満ちる。いいや、違う。
この感覚は、まるで……。
「お前を慕わぬ者がいたら? ここから出ようと、そう考える者がいないわけが……」
「やめなさい、京士郎」
京士郎の言葉を、志乃は遮る。
志乃は膝をすって、京士郎の前へと出る。そして呉葉と向かい合い、頭を下げた。
「過ぎたことを申しました。主人として、謝ります」
「おい、誰がお前の従者に」
「しかし、実際に見てきた京士郎の言葉にも一理あります。霧の中に陰気が膿んでいる場所があるかもしれません。村の者、あるいは霧の中にさ迷った者が、鬼となることもなきにしもあらず、でしょう」
「志乃様、貴女の持つ知でもわかりませんか」
「私は全てを知るわけではありませんから。しかし、人が鬼になる、という話を聞かないわけではありません。多くは死した魂が現をさ迷っているうちに変化するのですが、此度は些か事情が違うようです」
志乃がまくし立てる。それはこの場を切り抜ける方便だろうか。
なるほど、人もまた鬼になることがあるらしい。否、人こそが鬼になるのだ。京士郎は志乃にかつて語られたことを思い出す。
変われぬ魂が黄泉に溜まり、それが陰気となり、現世へ鬼となって出ると。
そして、それが全てではない。陰気がその手にかける相手もまた、人である。
「なるほど……。わかりました。しかし、そうした脅威がある以上、まだ白霧夢中の術を解くわけにはいきません」
呉葉はそう言う。どうやら話は最初に戻ったらしい。
京士郎はため息をつくしかなかった。
* * *
貸家に戻り、京士郎と志乃は一息つく。
呉葉の、民を守ろうとする意思は本物だろう。しかし京士郎は呉葉を信用することができない。
それは志乃も同じようで、つい言いすぎたことを咎めはしなかった。
「……確信したわ。白霧夢中の術は、ただ姿を隠すためのものでも、中に入った人を迷わすものでもない」
「なに? それはどういうことだ?」
「京士郎、貴方、呉葉様にも話してないことがあったでしょう?」
それは問いの形でありながら、確認であった。
京士郎は頷いて、言う。
「ああ。縄が切られていた。それもあの切り口は、斧かなにかで切られていただろうな」
「やっぱり。間違いないわ、それは私たちの考えを見抜いてのことよ。鬼が縄なんて、瑣末なものに手をかけるなんて考えられない。これで納得がいった。白霧夢中の術は、二重の檻よ」
「二重の檻?」
京士郎が聞き返すと、志乃は「そう」と言って、木の枝を用いて地面に図を描いた。
二重に描かれた円。その中を枝で突く。
「これが鬼無里。その周りが霧よ。いい? 白霧夢中の術は、この霧の中に鬼を飼うための術であると同時に、鬼無里に人を閉じ込める術なの」
「鬼を飼う? 人を閉じ込める? そいつは……人のやることなのか?」
京士郎は志乃の顔を見た。志乃はじっと、京士郎の目を見る。
それがなによりの答えだった。




