肆
京士郎は志乃の言葉に答える。
「はっきり言って、奇妙だ。気配が薄いと言えばいいのか。臭いも薄いし、音もなかった。俺があそこまで近くに来られて気づかないなんて、あるはずがない」
「大した自信ね……でも貴方が言うなら納得するわ」
志乃は頷いて、顎に指をかけた。
「気になるわ。霧も、彼女も」
「同感だが、まずは」
「ええ、貴方の言う通り。はっきりわかってることからやっていくべきね。鬼を倒す、その算段を立てましょう」
仮にもこの村で長のような立場にある呉葉との約束である。志乃はもちろん、破るようなことはしない。
ことここにおいて、京士郎と志乃は意見が合致している。それはとても珍しいことだった。
「驚いたな」
「どうしたの」
「お前なら呉葉を疑わないと思っていた。俺だからこそ、あいつの奇妙なところに気付けたようなものだとばかりな」
「あのね、貴方に神通力があるように、私には術についての知識があるの。あの霧が、彼女が言っていたような力であるのか疑ったのよ」
少し怒っているようで、誇らしげにも思えるような口ぶりで志乃は言った。
なるほど、と京士郎は頷く。腕っぷしとはまた違う、志乃が持ち得る力だ。
「それで、その大きな鬼は未だにあの霧の中を彷徨っているのよね」
「ああ。あの霧の中に入って、鬼を倒す。だが、その後が問題だ」
「霧の中からこの村へ、どうやって帰って来るのか、ね。先に霧を払ってもらう、っていうのも手だけれども、これは無理。私だったら、村の人へ被害が出るかもしれないのに霧をなくすわけにはいかないわ」
「その通りだな」
「じゃあ、霧の中を行かなくちゃいけないわけなんだけど、どうやって戻って来るのか案ある?」
「……ううん」
京士郎は唸った。
鬼無里の村に着いたのだって、ほとんど偶然と言っていいだろう。川をどうにか見つけることができ、それを辿ればこの村へ着いたのだ。だとすれば川の近くで戦うことができれば、戻ってこれることになる。
だからと言って、川の近くに鬼が現れるとは限らない。ましてや戦っているうちに川から離れることだってあるだろう。それに、できる限り動き回れた方がずっといい。
もはや打つ手なしか、そう思ったが、志乃は一つの単純な策を思い付いた。
「ねえ、こういうのはどう? 縄を京士郎の体に巻きつけて、村のどこかに結んでおくの。とっても長い縄をね」
その策はとっても馬鹿馬鹿しく、けれども少しだけ納得してしまった。
* * *
翌日になり、京士郎と志乃は村へと出て縄を探しに行った。
村の人の案内で、一件の家へ着く。それぞれの家で縄は結ばれているが、それを一箇所に集めている場所があるようで、そこならばと多くの人が口にしていた。
「呉葉様の仰られることならば」
最初は難色を示した縄の主人も、呉葉の名前を出せばそう言って縄をある限り出してくる。
京士郎は念のため、鬼を倒すための策を呉葉に話したのだが、そのための支援は惜しまない旨の約束をもらっていた。
縄の量はあまりに多いが、それでさえ足りるかどうか不安ではあった。が、ありったけの量を使って足りないならそれも止むなしである。
「なあ、お前は鬼を見たことがあるか。この村を襲うとかいうやつだ」
「鬼だあ?」
縄を結ぶ主人は、そう言うと怪訝な顔を浮かべた。
「見たこともないぞ。親父も、そのまた親父もないはずだ。さらのその親父ころが最後だろうよ」
「えっ? 鬼が最後に姿を現したのは百年も前ってこと?」
「それくらいになるのかねえ。ここは鬼無里だ。鬼はもう霧から出てくることはない」
「待ってくれ。ということはだ、呉葉……様は、そんなに長く生きてるっていうのか」
「そうだぞ、何を驚いているんだ」
京士郎と志乃は、思わず顔を見合わせた。
人間の生は、せいぜいが七十年である。それより長く生きたとしても、せいぜいが百年。しかも若さと美貌を保っているのだとしたら、それは人を超えた何かである。
「呉葉様は天女様なのだ。お前たちは知らないだろうが、あの方は建物の建て方から橋の作り方、畑を耕す術まで、いろんなことを教えてくださったのだ。おかげでこの村は今や安泰。病気で死ぬ者もおらんし、悪さをする者もいない。嫁がいなけりゃ呉葉様の一言で婚姻も決まる。村はあの方のおかげでできていると言ってもいいくらいだ」
「はああ、なるほど」
志乃はそう言って、少しだけ笑ってみせる。
果たして、土木に詳しく、さらには村の者のやりとりにまで間に入って仲介する呉葉の目的とは何か、京士郎にはわからない。
縄の用意ができる。京士郎と志乃は、縄の主人や近くの者の手伝いもあって、村の端まで運ぶことができた。
大きく太い木に、縄をくくりつける。もう一方を、京士郎の体に巻きつけた。腰と脇を回し、動きを邪魔しないようにいくらかの工夫をこらした。
刀を抜く。しかし霧のせいで日は出ておらず、顕明連の恩恵には預かることができなかった。
京士郎は霧を見て、息を吐いた。
「それじゃあ行ってくる」
「ええ、気をつけて」
そう言われて、京士郎は三歩だけ進み、ちらりと志乃を見る。
「そっちこそ、気をつけろよ」
「わかってるわ」
その含んだ言葉を、志乃は理解したのか。彼女ならわかっているだろうと信じて、京士郎は霧の中へと踏み込む。
視界は白く染まっていった。




