弐
屋敷の中へと京士郎と志乃は連れて行かれる。
京士郎はこれほどまで立派な建物に入ったことはなかった。門の構えは人の二倍の高さはあり、土を盛られて作られた塀は侵入を拒むためのものだろう。
中に入れられ、歩かされれば、床が一面木を削り出した板で覆われているのにも驚く。地面よりもずっと歩きやすいが、この床を作るためにどれだけの労力が費やされたのだろうかとも思った。
いくつもの部屋が左右にあり、一体どれだけの人がここで暮らしているものか京士郎にはわからなかった。
「驚いたわね、こんな屋敷があるなんて。どこかの領主の館かしら」
「呉葉様は領主などではない」
「じゃあ何なのです?」
基本的に他人には下手に出る志乃も、このときばかりはいくらか苛立ちを滲ませていた。
それも仕方ないだろう。手首を縛る紐はきつく、男たちは無理やりど突くようにして二人を歩かせているのだから。
また、男たちは志乃を好色な目で見ているのが、京士郎でも何となくであるがわかった。雌を見る雄の猿に似ている、などと口にすればただでは済まないだろうから口を閉ざしていた。
暴れることができれば簡単に逃げ出すこともできるだろうが、志乃はそれを許してくれないだろう。
それに、と京士郎は冷静になった頭で考える。
ここから逃れたところで、霧に阻まれて出ることができないのでは仕方ないし、であるならばなるべく穏便に済ませるべきだろう。さらに言えば、この村や霧のことを、この辺りの有力者に聞けるかもしれない。
(殺されそうになったらそこで暴れてやるが、こうして引っ立てられるってことはそうはいかないってことだろうな)
そうでも思わないとこんな無様な姿、やってられない。
腕を縛られ、刀も取り上げられ。無様としか言いようがない。
京士郎はそう思いながら歩いていた。
「ここだ。くれぐれも無礼のないようにな」
そう言って、部屋に座らされ、京士郎と志乃は置いていかれる。
部屋に二人で残され、顔を見合わせる。そしてため息。このときばかりは、この状況をどう飲み込もうかと気が沈んだ。
「呉葉ってやつは、どんなやつなんだろうな」
「さあ……村の人にあれだけ慕われているのが気になるわ。優れた人なのか、親の七光りか」
「ななひかり?」
「親が立派な人で、それにあやかってるという意味よ」
「ふうん」
「あらあら、何やら面白そうな話をしておりますなあ」
京士郎と志乃がそう話していると、声がした。
驚いた二人は、声がした方を向く。
そこにいたのは、着物を着込んだ女だった。豪華な着物に目を奪われたが、しかしそれ以上に惹かれるのは、その女の美貌である。京風ではないが、鋭利な雰囲気がある。志乃には少女らしさがあるが、この女は色気があった。
しかし、京士郎はこの女に、ずれた感覚を覚えた。まるでそこにいるはずなのにいないような、存在の希薄さがあった。そして疑問に思ったのは、目だけでなく、耳も鼻も優れている京士郎が他の者が近づいてきたことに気づかなかったということ。
自信が過ぎるかもしれないが、いままでそんなことのなかった京士郎にとっては、驚愕に値することだった。
「あ、い、いえ」
「ふふ、冗談ですよ。急にこんなところに連れてこられれば、それはいろいろと文句も言いたくなります。ごめんなさい、外から他の方が来るのは珍しいものですから」
戸惑う志乃を見て、笑いながら女は言った。
ただそれだけのやりとりであったが、京士郎は女に並々ならぬものを感じた。
「ようこそおいでくださりました。ああ、縄はいま解きますね」
そう言って、女は京士郎と志乃の腕を縛っていた縄を解いた。
晴れて自由の身になったが、毒気を抜かれてしまった京士郎は暴れる気にもならず、志乃もまた口を悪くしてしまったことを気に病んでいるのか大人しかった。
「初めまして、私はこのきなさの村におります、呉葉と申します」
「きなさ?」
「はい、鬼の無い里、と書いて鬼無里でございます」
安直な名前だな、と京士郎は思った。
しかしこの時勢に、鬼の無い里とはまた、思い切った名前をつけたものだなと逆に感心してしまう。
「それで、呉葉様はこの村の長か、あるいは地域の領主様なので?」
「村の者たちはそうおっしゃっていますが、私は何もしておりません。ただ彼らに生きる術を教えたのみです」
「なるほど」
志乃はそう言うと、背筋を伸ばして口を開いた。
「申し遅れました、私は志乃。京より参りました。こちらは従者の京士郎」
「まあ、京から? それは本当に、遥々来たのね」
呉葉はそう言って微笑む。少し羨ましがるかのように、笑っていた。
「ところで、気になることが多いのですが、お聞きしても?」
「ええ、私で答えられることならば。村の者たちの非礼のお詫びにもなりませんが」
「いいえ、そんな……。目下、気になっているのはあの霧です。一体、何なのです?」
「ああ、霧ですか。あれこそがこの村が鬼無里と呼ぶ所以です」
「え……?」
「はい、簡単に言いますと」
呉葉は、それがまるで当然のことであるかのように言った。
「あの霧は私の持つ術、白霧夢中の術。他よりも優れた術であると……自負しております」




