漆
洞窟の中を、京士郎は駆け抜ける。
途中で、逃すまいと襲いかかってくる蜘蛛たちを切り払う。
背後からは土蜘蛛が物凄い勢いで迫っていた。赤い目が怒りに燃えている。
距離は縮んできている。しかし足を緩めなければ、追いつかれることはないこともわかる。
志乃の声はまだ聞こえる。どこにいるのか、京士郎にはだいたいわかっていた。
広い洞窟の、未だ踏み込んだことのない部分。
そこは日が差す場所だった。
そして光の下に、その少女はいた。
「京士郎!」
「何度も名前を呼ぶな、聞こえてる!」
「聞こえてる方がおかしいのよ!」
言われてみればそうであるが、京士郎は構っていられない。
蜘蛛に囲まれながらも、志乃には近づけずにはいるようだった。
志乃がなんらかの術を使っているのかとも思ったが、それは違った。
京士郎もまた、日の下へと入る。見上げれば天井はなく、木々と空が広がっていた。
どうやらここだけ崩れているらしい。
京士郎は一足で飛び、志乃の隣に降り立った。
「これはどういうことだ。こいつらは?」
「気づいたのよ。髑髏の雲の正体と、土蜘蛛がどうして村を襲わないのか。まず、彼らは日の光を嫌うの。髑髏の雲は日から自分たちを守るためのものなのよ。村を襲わないのは、髑髏の雲だけでは村の全体を覆えないから。森の中と違って木で日が隠れなくて、日の光が横から入ってしまうのよ」
「それでも、夜に村を襲わない理由にはならないが」
「鬼として大きな力を持っていても、所詮は蜘蛛よ。知らない? 『朝蜘蛛は佳き人の走り、夜の蜘蛛は盗人の走り』って」
志乃は得意気な顔をしていた。
言われてみれば養父母がそんなことを言っていた気がする。朝に出てくる蜘蛛は殺してはならない、夜に出てくる蜘蛛は除きなさいと。
なるほど、つまるところ、彼らはその言葉に縛られている。人の理ではあるが、鬼を退けるだけのものであるのだ。
「よかった、これで貴方に会えなかったらどうしようかと思ったわ」
志乃がふっ、と笑った。晴れやかな笑みだった。
大したものだ、と思った。安全な場所であるとは言えこうして敵に囲まれ、しかし笑う豪胆さ。自分を呼びかけ続けるその度胸。
なにより……てっきり苦い顔で小言を言われると思っていた京士郎は、その口ぶりとは裏腹に、よもや笑顔で迎えられるとは思いもしていなかった。
(って、何を見惚れているんだ、俺は)
京士郎は頭を振って、考えを払った。
蜘蛛の集団の向こう側に、一際大きな蜘蛛がいた。近づこうにも近づけないのか、動かずにいた。
悠長にはしていられないだろう。髑髏の雲をここで出されてしまえば、ここも安全ではなくなる。この数の蜘蛛と、土蜘蛛を同時に相手にする自信もなければ、志乃を守りきるのは無理だった。
「それで、策はあるのか」
「……あると言えばあるけど、賭けでしかないわ。京士郎、ちょっといい?」
よく名前を呼ばれる日だな、と京士郎は思いながら、志乃の言葉に耳を傾けた。
「何だ?」
「私は貴方のことはよくわからない。でも、その刀を抜けるってことは、もしかしたらってこともある」
「何を言ってるんだ?」
「恨むなら私を恨みなさい。刀を掲げて、日に透かすのよ。」
言われるがままに、京士郎は刀を空へ伸ばした。
刃を寝かせて日を遮るように。
すると、京士郎は様々な光景を見た。
己があった。志乃がいた。ともに歩いていた。
炎があった。大きな蛇が暴れていた。鬼と戦っていた。
戦があった。たくさんの人が剣を持っていた。
国があった。皆が一つの社を囲んでいた。
山があった。火を噴き、赤い波が大地を包んでいた。
海があった。遥か巨大な生き物が泳いでいた。
月があった。渇いた大地が広がっていた。
光があった。闇があった。
女があった。笑っていた。
たくさんの光景が、泡沫となって京士郎の目に映っていた。
目が回りそうなその景色の中であるが、京士郎の目は確かに全てを捉えていた。
そのうちの一つに、京士郎は目をつけた。
すっと、身体が引く感覚。時にして一瞬。京士郎には長く、長く感じられたが、一瞬に過ぎなかった。
「いま……のは」
「見えたの?」
「ああ、見えた。これが狙いだったのか」
「ええ。その刀の名前は顕明連。近江の湖に住まう蛇の尾から出てきたと言われる宝刀よ。元は天界のものとも、黄泉のものとも言われてるけど……。貴方の見たものは、三千大千世界。この世の全てよ」
それがどうして京士郎に、あのような光景を見せたのか。はたまた、京士郎を刀の担い手として認めているのか。
志乃にはいくつか考えがあるようだが、京士郎にはさっぱりわからない。
とりあえず、目の前の土蜘蛛をどうにかしないことには始まらない。
京士郎は刀を構えた。
顕明連が見せた景色。そのうちの一つ。
京士郎は、その景色を————手繰り寄せる。
「シッ」
浅く息を吐いて、京士郎は志乃の元から跳んだ。
飛びかかってくる蜘蛛を避け、斬り、土蜘蛛でさえ飛び越える。
背後を取った京士郎。土蜘蛛は天井に糸を飛ばし、その糸をぶらさがるように登った。
鬼の顔を下げ、京士郎を睨んだ。
それこそが、京士郎の狙いだった。
地面を蹴る。刀を逆手に持つ。
唯一できた隙。疾く、風のように京士郎は土蜘蛛に飛びかかったのだった。
土蜘蛛の首に、銀に閃く刃が突き立てられる。
白い血が吹き出る。それは京士郎を汚す。
洞窟中に響き渡る土蜘蛛の断末魔。それは同胞の蜘蛛たちでさえ怯ませる。志乃も耳を手で覆っていた。
「おのれ、おのれ! 脆弱な、感情に振り回される雑種が!」
京士郎はその戯言に耳を貸さない。
ただただ、刀を押し込む。ぐっと、力を込めて。
ああ、お前にはわかるまい。
全てで一つと考えるお前には、わかるまい。
己と他者は、別のものであるから。それは時に人との齟齬を生み、人を蔑み、そして疎ましく思うようになってしまうかもしれない。自分がそうされたように、あるいは自分もそうしたように。
けれど、ああ、けれど。
京士郎は思う。この思いは、他者だから抱くもの。
土蜘蛛に食われた子どもの痛みを思い、子どもを失った親の悲しみを思い、そしてその姿に自らと親しい者たちを重ねていく。
だから怒り。だから動く。
「これが俺の答えだ、土蜘蛛! 生きる者の足をその糸にかけるなど、させるものか!」
「ふひっ、此の期に及んで世迷言を。お前たちはいずれ滅びる。我ら鬼によって。それも全て、自分たちが招いたことと知るがいい!」
それが土蜘蛛の最後の言葉だった。
京士郎は刀を抜き、払った。土蜘蛛の首が落ちる。その巨体を天井へ張り付けていた力が失われ、洞窟に落ちた。
どしんと、大きな音が響いた。京士郎は地面に音もなく着地した。
小さな蜘蛛たちは、土蜘蛛が死ぬのと同時に、白い液体へと姿を変えた。それは彼らなりの死であるのだろうか。
京士郎が土蜘蛛に近づく。そして、その腹が裂けているのが見えた。
そこから転がってきたのは髑髏であった。
人の頭の骨。それが山のようになっていた。村の者か、兵なのか、男か女か、さっぱりわからない。こうなってしまえば、人は他と区別することはできないのだ。
京士郎は気づけば、刀を地に落としていた。戦いに勝ったという実感はなく、ただただ疲労が身体を蝕んでいたのであった。




