肆
夜が更ける。
山の中だろうと平然と寝れる京士郎であったが、この日ばかりは上手く眠れずにいたのだった。
訳はわからないが、目が冴えてしまっているのだ。
何度目かの睡眠を試みたが、それも失敗に終わり、京士郎は寝ることを諦めた。
「……鬼、か」
京士郎が呟く。それは意識してのことではない。
すると、隣に敷かれた藁布団が動く。
目をこすり、こちらを向いてくる少女。志乃だ。
男の家で雑魚寝をする京士郎たち。京士郎は雑魚寝には慣れていたが、志乃がそこにいる光景には慣れていなかった。
「どうしたの?」
志乃が批難するかのような口調で言った。いびきをかいている男に、聞こえないような声で。
起こしてしまったのか、と京士郎は心の中で言った。志乃は寝起きが悪い。主に機嫌が。
「鬼というのがわからん」
「またその話?」
どうやらさらに不機嫌にさせてしまったらしい。京士郎もまた少し苛立った。
「ああ、わからん。あいつらはなんだ。陰気、とは言うが、どうして黄泉にあるものがこっちに流れてくる。向こうのものは戻ってこない。俺の母がそうであるように」
「貴方のお母様については知らないけど」
志乃はため息をついた。藁布団から這い出てきて、正座をする。
京士郎もまた、志乃と向き合うために身体を起こしたのだった。
「死者は、確かに黄泉に行くわ。でも、そこで終わりじゃない」
「来世が決まるんだろう、そこで」
「なによ、わかってるじゃない。どこで教わったの?」
「天狗に習った」
「……めちゃくちゃよ。そっちの方が気になるわ」
「いいから話せよ」
京士郎が先を促す。志乃はわかったわ、と言って続けた。
「そうよ、次の世に、どんな姿で生まれるかが決められるの。でも、それを嫌がる者だっているわ。けれど黄泉において死者は形を保っていられるわけじゃない。魂っていうのは、器から離れても確固とした形を持っていられるほど強いものじゃないの。それでもそうした魂、思念は……集まり、溜まり、そして溢れるのよ。それが”陰気”っていうの」
「嫌がるねえ。どうあったって、変わりはしないのに」
「そうよ。死んだ者は変わることができない……」
嫌な話ね、と志乃は言った。その通りだな、と京士郎も頷いた。
「土蜘蛛もそういった輩なのか?」
「そう考えて間違いないわ。前も言ったけど、鬼についてはわからないことの方が多いの。貴方の言う天狗の方が知ってるかもね」
天狗の顔を思い浮かべる。赤ら顔、長い鼻。彼は京士郎に様々な知識を与えたが、鬼についてはほとんど語ることはなかった。
人に興味がない、と言っていた天狗であったが、結局のところ語っていたのは人のことばかりだった。
「というか、どうやって天狗なんかと知り合うのよ。一体あな……」
「頼もう」
志乃の言葉を遮るように、男の声が響いた。
低い男の声。まだ夜も明けない頃だった。にもかかわらず訪れてくる男に、京士郎と志乃は不審に思った。
家主の男も、来訪者の声で目がさめたらしい。もぞり、と身体を起こした。
「頼もう」
「はいはい! いま行きます」
男が玄関へと向かった。
どうにも嫌な予感がして、京士郎は刀を持ち、志乃とともに男のあとを追った。
表へ出れば、そこにいたのは一人の僧であった。
奇妙な僧だ、と京士郎は思った。京士郎は僧を見たことはさほどない。が、この僧はそもそもどこかズレているように感じられた。
日も昇らないうちに訪れてくること、派手な袈裟を身に纏っていること、何も浮かべていない表情、そして七尺にも及ぶ背丈。
この怪僧が、昨晩に聞いたこの村に訪れてくるという僧に違いないことはわかる。なるほど、これは奇怪だ。家主の男が口を濁したのも頷ける。
「頼もう」
「へ、へい?」
僧はそれしか口にしなかった。男も果たしてどうしたものかと、困り顔を浮かべている。
京士郎は僧を上から下まで眺めた。そして、奇妙なものを見つける。
袈裟によって隠れているからよくわからなかったが、男の身体にはどうも力が入っていないように見えた。手足はだらんと下がっていて、筋に力みがない。
「頼もう」
怪僧はそればかりを繰り返す。
「あの、どなた様でしょうか?」
志乃が前に出る。元から会わなければいけない相手だった。手間が省けた。
だが、怪僧は志乃を見ていない。
京士郎は確信を持って、刀を抜いた。志乃を押しのけ、右足を踏み込む。
閃いた刃は、怪僧を斜めに切り裂いた。しかしそれは腕の一本を斬りとばすだけに終わる。
まるで京士郎がそうすることをわかっていたかのような動き。まず京士郎の動きは見えなかったはずなのに。
この怪僧は、目に頼っていない。そして、いまの動きの最中に見えたものがあった。
それはこの怪僧を吊るす糸。天から垂れている銀色の糸が、怪僧の四肢に巻きついている。
大きく距離を開けた怪僧であるが、それだけに終わらない。口を開けば、糸の塊を吐き出した。踏み込もうとした京士郎は思わず躊躇い、動きを止めた。
「急急如律令!」
志乃の呪文。京士郎に目掛けて飛んでいった糸の塊は、志乃の張った結界に阻まれた。
朝日が昇り始めた。空の青が赤に染まっていく。
見上げれば、昨日見たばかりの髑髏を思わせる雲がそこにあった。
間違いない、これはすべて土蜘蛛の仕業……!
足元を見れば、怪僧の血液と思われるものが散らばっている。
しかし、その色は赤ではなく白。怪僧の失われた腕からも同じ色の血液が滴っている。
「京士郎、大丈夫!?」
「問題ない! 下がってろ!」
志乃の声に応えて、京士郎は刀を構える。怪僧と空の雲に気を配りながら、じりじりと足を這わせた。
目の前の怪僧は、精山を探す手がかりにはならなかったが、土蜘蛛の手がかりではある。ここで逃がすわけにはいかない。
「傀儡の術……それも鬼が使ってる、ですって? 信じられない……!」
志乃がそう言った。京士郎には相手の術の正体がわからないため、助かる言葉であった。
「なんだ、その、くぐつってのは?」
「傀儡よ。あれはおそらく、討伐に向かった兵や僧たちの誰かの屍体を使って化けているの。私たちの内でも好んで使う術者はいるけど、まさか鬼が使えるなんて」
「……せめて斬ってやるのが救いか」
京士郎はそう言って飛び出し、横に刀を振るった。
しかし、怪僧は大きく上に飛んだ。いや、引っ張りあげられたと言うのが正しい。
そして空中で、風に煽られたのかゆらゆらと揺れると、髑髏の雲と共に山の方へと飛んでいく。
「逃がさねえ! 追うぞ!」
「私に指図しないでって言ってるでしょ!」
京士郎と志乃は空を舞う怪僧を追って、走り出した。




