行きめぐりても あはむとぞ思ふ
私は筆を置いた。そして息を吐く。
字の練習で始めた物書きだったけれども、気づけば多くの言葉を紡いでいた。
果たして、これが本当に意味のあることなのか、などと思い苦笑いをする。少しは上手くなっているだろう、とは思うけれども。
桂、の名を冠してどれほどのときが経ったか。まだまだ未熟な自分にはわからないことも多かったけれども、この物語で得られたものはたくさんあったはずだ。
わからないところは、いろんなところから話を集めた。彼だって、自分のお父さんとお母さんのことはわからないのだから。
「お疲れ様、長かったわね」
そう言って、書き上げた話を手に取ったのは私の仕えている主人。いまでは中宮と呼ばれ、物語の中では「姫」と呼ばれていた者だった。ここでも念のため、姫と呼んでおこう。
姫はそれを一通り読んで、ため息を吐いた。
「そう、彼はこんな旅を貴女に語ったのね」
「はい。一言も違わず、というのは無理でしたが」
「ふふっ、彼はもっとおかしな言い方をしてたでしょう。よくこんな風に伝えられるようになったと感心するくらいよ」
姫はそう言って笑った。彼女もまた、彼と話をした、数少ない人である。その言葉はこの話を書くにあたって、大きく影響している。色男であるだとか、仕草だとか、彼女はよく覚えていた。
「でも、彼は私のところには顔を出してくれないのね。なんだか寂しいわ」
「それはそうでしょう。貴女は后となられた身です。迂闊に宮へと入ろうものなら、この国を敵に回すも同然ですし」
「ふふっ、彼は国を相手にしたって恐れたりはしないわ。それは貴女が一番わかっているでしょう?」
私は思わず、顔を背けた。ちょっとだけ拗ねてみせる。
当たり前だ。私はこれでも、一番彼のことをわかっている自信がある。彼ならきっと、なにも気にせず来てしまうだろう。そして責められたら言うのだ。「なにを馬鹿な、友に会いに来ることのなにが悪い」と。
それでもなお、来ないということは彼には何か事情があるのだろう。そうとでも思わなければ……なにを考えているのだろう、私は。
「いま、どこにいるのでしょうね」
「蝦夷にでも足を伸ばしているか、宋へ行っていてもおかしくないわね。もしかすると天竺まで」
「はは……本当にやってそう」
「お土産話をいっぱいしてもらいましょうね」
姫はそう言った。
私は外を眺めた。この世のどこかに、彼がいる。そう思うだけで、叫びたいほどに胸の奥にあるものが締め付けられた。
隣にならんだ姫も、同じように眺めた。
「ところで……名前を自分のものにしたのはわざと?」
「なっ、違います! 書き損じて、直すのもなって思って!」
「はいはい。もう、仕方ない子ね」
「子ども扱いしないでください!」
私がそう言うと、姫はくすくすと笑う。
「恋人を作る気もない、なんて言われたら、この子は京士郎に恋をしてしまったのだな、と思うしかないじゃない」
「そんなことありません!」
あらあら、と言って姫は部屋から出て行く。いつまでも自由気ままな人だ。大人になったとは言え、帝も大変だろう。そんな思いを抱く。
恋に興味がないのも本当だし、名前を間違えたのも本当だ。
でも、私の奥底に彼がいるのは確かなのだ。この想いの名前を私はまだ知らない。
私は目を閉じる。未だに覚えている。蘇ってくる。あのときのことを。
記憶、なんてものじゃない。記憶はたくさんの想いが混ざって、変わってしまう。これは思い出。大切な思いとともにあり続ける、思い出なのだ。
「ねえ、悪い男のひと」
ここにはいない貴方へ。届いていますか。
私の言葉。私の想い。受け取りにきてください。
できれば花咲く間に。
「また、会えるよね」
* * *
齢にして六つの頃。
集落で暮らしていた私は、日々に何か足りないものを感じていた。
周りの家の友人と遊び、父や母の仕事を手伝い、生まれたばかりの子をあやす日々。
そんな中で私には何か不足があった。それはここでは満たせないものだとも思っていた。けれども漠然としたそれの正体をつかむことができない。
ただただ、自分の胸に空いたなにかを埋める術を持てずにいた。
物心がついたときから、ああ、何かがないんだな、と思っていた。
かっこいい父も美しい母もいるのに。彼らに聞いても、曖昧に笑うばかり。
いつかわかるよ、なんていう風にごまかされて。私は少しだけ不満だった。そう思って何かが解決するわけではないことを、そのときから知っていたけれども。
ある晩。みんなが寝静まった夜。私は惹かれるようにして、歩き始めた。
誰もいない夜。月だけが私を照らしている。私の道を示すように。
ずっとまっすぐ歩いていく。やがて森の中へと入っていった。
狐が走っている。それは獣道を走っていく。ついてこい、ということなのだろうか。
私は走る。慣れた山だ。どう歩けばいいのか、わかる。
やがて開けた場所に出た。誰かがいる気配がする。
周りを見渡して、見つけた。岩に座っている彼。私の顔を見て、驚いた顔をする男のひと。
綺麗な顔をしていた。きりりとして、澄んでいて。憂げながら、快活さもあった。神秘的、とでも言うのだろうか。常人とは違う何かを持っていた。
そして、私は奇妙な感覚を覚える。初めて会うはずなのに、懐かしい感じ。生まれる前から知っているような、自分の根っこにあるもの。
言え、と命じている。私は知っている。知っているのならば、やることは決まっている。
驚いた顔の彼。泣きそうな顔をする彼。言葉を出そうとして、詰まる彼。
そんな顔をしないで。そんな顔をされたら私、悲しいもの。
でも嬉しい。貴方がそんな顔を向けてくれるなんて。
私のものでないはずなのに自分の感情。
きっと彼を、待っていたから。
きっと彼も、待っていたから。
長いようで短い時間を経て、私はようやく、声を出した。魂に刻まれたものを、形に。
「京士郎!」




