拾陸
「それはいい名前ね」
京士郎のがつけた名に、真緒は笑顔で賛同した。ね、しの、と真緒は京士郎の腕に抱かれた赤子の頬に触れた。白路もまた頷いていた。
そしてしばらくして、真緒は顔を上げる。
「字はどのように書くの?」
「すまん、俺は字がわからないんだ」
こんなことなら、名前くらい教えてもらえればよかった。京士郎はそう思ったが、そんなことをいまさら考えても仕方ない。
うんうん、と少しだけ悩む仕草を見せて、真緒は地面を指でなぞって字を書いた。
「きっと、こうやって書くのよ」
書かれた文字は『志乃』であった。京士郎はなんとなく、その字で合っているような気がした。
「これはどういう意味なんだ?」
「ふふっ、京士郎がつけてくれた名前なのに、私が教えるのは変な感じ」
真緒はそう言った。京士郎は思わず、顔を赤らめる。やはり無知というのは恥ずかしいものだ。
今度、誰かに自分の名の書き方を習おうとも思った。
「『志』というのはね、自分の足で踏み出す、という『士』という字と、自分の胸にある大切なものである『心』という字でできてて、二つ合わせると『思いを持って歩く人』という意味になるの」
京士郎はそう聞いて、少しだけ笑ってしまった。それとともに涙もすこしだけ込み上げてきた。
ともに旅をした志乃はそういうやつだった。目を閉じれば、まだ思い出す。志乃の笑った顔、怒った顔。そのどれもが愛おしい宝であった。
思わず、赤子を高く掲げる。そして声をかけた。
「よく生まれてきてくれたな。お前は、いまから志乃って名前だ」
声は聞こえるのだろうか。いいや、聞こえたとしても、理解はできてないに違いない。
それでも声をかけざるを得なかった。
「これからたくさんの困難があると思う。でも、負けないでくれ。名前と一緒に歩いてくれ」
そして、と京士郎は言葉を続ける。
「歌と舞はやっておけ。可愛らしい顔をしている、いつかどこかの貴公子に見初められるかもしれないからな。あと、飯はよく食え。食えるときにきちんと食っておくんだ。一緒にいてくれるやつを大事にしろ。きちんと名前を呼んでやれ。あとは……あと……」
京士郎は言葉に詰まった。喉から声が出なかった。泣いているのだと気付いた。
いくら言葉をかけたって意味はない。言葉にならない思いだってある。自分にはまだまだ足りないものもある。
そっと、真緒の腕に赤子を戻した。京士郎は急に情けなくなった。
「ねえ、京士郎。いつかまた、この子の元に来て」
「いいのか?」
「悪いことなんてないわ! そしてたくさん話して。貴方の旅も、そこで見てきたものも。きっと素敵なものなはずだから」
京士郎はその言葉で、どうしてか許された気がした。ふっと、気持ちが楽になった。
ここもまた、帰る場所なのだろう。志乃と名付けた子が育つこの場所が。
すっと、背を向ける。白路が寄ってきた。
「もう行くのか。もっとゆっくりしていけば」
「はは……ここはまだ、お前たちの家ではないだろ? 子を産んだお前たちならともかく、俺まで世話になる道理はない」
「そうか」
白路は京士郎の肩を叩いた。それは京士郎が、白路の背中を叩いていたのと同じ調子だった。
「よし、わかった。行って来い。必ず帰ってこいよ。……ありがとう」
「ああ」
短く、そう答えて京士郎は家を出た。
あたりはすっかり明るくなっていた。いまから玉藻の元へ向かえば、着くのは夕暮れ頃だろうか。
ふと、足元を見る。そこには玉藻の遣いの狐がいた。
目を合わせると、狐は京士郎の肩へ再び乗った。その頭を撫でる。
「これでよかったんだ。きっとな」
狐は何も言わなかった。きっと玉藻は、この狐越しに自分のことを見ているだろう。笑っているだろうか、呆れているだろうか。それはまた会ったときの楽しみにしていよう。
これほど寂しく、けれども心地よい別れは初めてだった。




