拾伍
8/15 17:30に第99部を更新しております。
京士郎が走っていくと、婆の家から女たちが出て行っていた。その顔は一様に晴れやかであって、こちらの戦いもほぼ同時に終わったのだと知った。
少し土埃をかぶっている京士郎を見て、何事かと女たちは見てきたが、笑って大丈夫だと言うと追求もそれまでだった。
そのまま押し入るように婆の家へと飛び込んだ。
中には白路がいた。彼は京士郎を見ると、立ち上がって近づいてきた。
「京士郎! いや、なんというか、そのだな……よく帰ってきたな」
「思ったよりずっと弱かった。あの程度、どうってことはない」
「鬼をどうってことがない、なんて言えるのは、世は広しと言えどお前くらいだろうな」
白路は少し驚きながらも、そう言った。
事実として、京士郎の敵ではない相手だった。時間だけがやたらとかかったが、時間稼ぎをするまでもない。
「ところでどうだ? 女たちが出ていくのを見たが」
京士郎が問いかける。白路は笑うと、奥へと導いた。
奥にいたのは産婆と真緒。そして真緒の腕には、小さな赤子が抱かれていた。
京士郎はその赤子を見て、どうしてか目のしたが熱くなるのを感じた。
「もしかして、その子が」
「ええ、京士郎。私と白路の子よ」
真緒は笑顔だった。苦しい戦いだったろうに、まだ体力は戻ってないだろうに、笑っていた。
京士郎は真緒の側まで近づいて、赤子を見つめた。寝ているようで目を閉じている。
「男か、女か」
「女の子よ」
ね、と真緒は赤子の頭を撫でた。京士郎は、そうか、と口に出していた。とりわけ、男女の別など問題ではない。でも聞きたいことがたくさんあった。でもすべてを聞くことは憚られた。いまは新しい命の誕生を心から喜びたかった。
「不思議な気持ち」
真緒が漏らすように言った。京士郎は顔をあげる。
「私、不安だったの」
「きちんと産めるかか? それとも母になれるかか?」
「ううん、私ね、白路のことをとっても愛してるの。これ以上ないというくらい、愛してるわ。でも、もし子どもができたとき、私はどちらを愛せばいいのかと思ったの。こんなに白路のことを愛しているのに、他に誰かを愛せるのかなって」
でもね、と真緒は言う。
「愛が生まれてきたの! 子どもと一緒に愛が生まれてきたのよ」
「生まれてきた……」
なんとなく、わかるような気がした。
愛というのは何かをすることではない。ただその人と共にありたいと思うことだ。子が生まれると、自然と子とも一緒にいたいと、思えるようになれるということなのだろうか。そんな気がした。
「この子にはきっと、これからたくさんの苦難が待っているのだわ。私には家はないし、白路もそう。これからどうすればいいのか、わからないの。でも乗り越えられる。こんなにも愛があるのだもの、やってみせるわ」
真緒はそう言った。悲痛でありながら、暖かい覚悟だった。京士郎はその覚悟を本物だと思った。
白路もまた京士郎の隣に並ぶ。赤子の手をとった。
「そうだな。俺もそう思う。ここからもう一回、出発しなければならない。真緒にも、この子にも、多くの苦難を強いる。でも乗り越えなきゃだ。この子にいい未来を残すために」
白路が言った。京士郎は、白路と真緒の二人が羨ましく思えた。
まさしく二人が勝ち取った幸せだった。いくつもの不幸があり、偶然があった。その先に得た幸せ。これから先に苦があると知りながら、地に足をつけて考えていく。
京士郎はそれを得ることはできなかった。でも、二人を見ていれば、それでいいような気さえした。
「この子の名はもう決めたのか?」
京士郎が尋ねると、二人は意味ありげに顔を見合わせた。
「お前が決めてくれ、京士郎」
「……え?」
「いっぱい考えてたけれど、それがいいと思うの。お願い、京士郎。貴方もこの子の大切な人なのよ」
京士郎は急なことで戸惑う。
「俺でいいのか」
「いいんだ。いいや、お前がいい。これから先、また子を作っても、お前がいてくれたからこそ生まれた子はこの子なんだ。お前も親の一人なんだぞ」
そう言われると、京士郎は思わず泣きたくなった。けれども名をつけるという大任がある。
名など考えたこともなかった。そもそも、他人の名を呼ぶことなどほとんどなかったのだから。
けれども、どうしてだろう。この赤子の顔を見ていると、もうすでに名前が決まっているような気がしたのだ。
京士郎は子に両手を伸ばした。真緒は京士郎に赤子を渡す。
赤子を抱えて、京士郎は唱えた。その名を。自分の裡から溢れてしまった、名を。
「この子の名前は……『しの』だ」




