04
やあ、ルーナ。柔らかな声音に、ルーナはゆっくりと瞬いた。
目の前には、ここにいるはずのない男性。暫し思案して、ああ、と得心する。
「また渡っちゃったんですね、私」
「どうやらそのようだ」
くすり。微笑む表情は、声と同じくらい柔らかい。
また、と自ら評した通り、「また」夢を渡ってしまったルーナは気まずげに頬をかいた。
(魔力の制御には、自信があったんだけど)
相手と自分の夢を繋げる、〈夢渡り〉。魔術の中でも特に素養を必要とするものだが、反対に言えば素養しか必要としないものでもあるため術者が無意識に夢を渡ることも多いらしい。
職業柄無意識に魔法を使っていることはないと思うんだけど、と首を傾げても、実際にこうして目の前でにっこり笑うムハマトがいるのだから、説得力はまるでない。
まだまだ未熟。かつては毎日のように師匠に揶揄するように言われていた言葉が浮かび、肩を落とした。
「まあそう落ち込むこともないだろう。せっかくこうして会えたのだ。少し世間話でも如何かな」
形こそ問いかけだが、実際は決定事項なのだろう。
今の今まで何もなかったところに都合よく椅子とテーブルが現れるところは如何にも夢の中らしいと苦笑しつつ、ルーナは促されるままにムハマトと向きあった。
考えるだけで手の中にお茶の入ったポットを出現させた手慣れた動作に、ルーナは感嘆とも呆れともつかない息を吐く。
「巻き込んでる私が言うことでもないですけど……動じないですよね、ムハマト殿は」
「おや、そう見えるかい?」
「見えるというか、動じてないですよね、実際」
「ふふふ」
さあ、どうだろうね。
曖昧に誤魔化して、ムハマトはルーナにカップを差し出す。
どうも、と受け取ったはいいものの、ルーナは再度首を傾げた。
「……ムハマト殿?」
「ん?」
「なんだか……怒って、ます?」
どこがどう、とは言えないのだが。
すっと瞳を細めてみれば、彼の纏う魔力がいつもより僅かに波立っているのがわかった。恐らく、感情に引きずられているのだろう。
珍しいことだ、とルーナは瞬く。彼の魔力は、いつだって湖面のように凪いでいる。感情の上がり下がりと魔力のそれとは訓練している人間でもかなり影響が出やすいもの。それがいつも凪いでいるということは、ムハマトが感情の制御にかなり長けているということでもある。
そんな彼の感情を乱すような、何があったのだろう。心配よりも好奇心の強い瞳でじっと見つめられて、ムハマトはやれやれと肩をすくめた。
「まったく。お前は本当に聡い娘だねえ」
「……気づかない方がよかったですか?」
「ああ。……と言いたいところだが、お前のような娘にはそれも酷な話だろう。良いのだよ、気に病まずとも。私がまだ未熟だったというだけのことだ」
(……あ)
ゆらり。言い終わるか終わらないかの内に、一瞬で魔力の揺らぎがおさまった。
やっぱりすごい、と感心しているルーナをよそに、ムハマトはにこにこと笑ったまま「聞かないのかい?」と問うてくる。
何の話だ、と視線を向ければ、理由だよ、とのこと。
「聞いてほしいんなら、聞きますけど」
「お前の意見が聞きたいのだよ。どうにも、胡散臭い話だったからねえ」
くつり。喉で笑うムハマトは、先ほどと同じ笑顔のはずなのにどこか薄ら寒い。
悪い顔してますよー……と控えめに指摘すればすぐに元に戻るのだが、あまりにそれが素早過ぎて逆に怖い、と思ってしまうルーナに罪はないだろう。恐らく、というか確実にムハマトはわざとやっているので、ここで素直に抗議しても意味がないのが辛いところか。
カップを一度傾けてから、さて、とムハマトは切り出した。ゆったりと紡がれる言葉は、夢の中にいるのに更なる眠りに誘おうとするかのように甘ったるい。
「ここ最近の、火事騒ぎについてね。どうやら呪詛のようだということで、管轄が軍務から法務に引き継がれるそうなのだよ」
「……それ、私が聞いてもいいことですかね……?」
「ふふふ」
まさかの思いっきり国政の話だった。
ひくりと頬を引き攣らせつつそう問えば、ムハマトは相変わらず笑うだけ。聞くだけ野暮、ということらしい。
「なんでも、死者の呪詛だから解呪は不可能ということで、今は被害を最小限にするために護符を大量作成しているのだとか。心当たりのある者は真っ青になって我先にと法務省に押しかけていたよ」
「……解呪が無理な呪詛に、護符程度が効くんですか」
「さて。〈魔法の君〉お手製という触れ込みだから、もしかすると効果があるのかもしれないねえ」
「…………」
〈魔法の君〉。敢えてその言葉を出すムハマトの意地悪さに、ルーナは黙りこむ。
知らないというのは幸福なことだ。嘯いて、ああでも、とムハマトは思い出す。王の御前、それも重臣ばかりが集う朝議の場だというのに、不審の念も露わに玉座を見据えていた法務長官を。
もしかすると、あの男は気づいているのかもしれない。いや、気づいているのだろう。〈魔法の君〉には及ばずとも、それに次ぐ魔力の持ち主であることを示す法務の長である。偽り言には、何より過敏だ。
「呪詛だなんて……みんな、納得したんですか」
「半分は。半分は、元からアレが何か察していた輩ばかりだ」
「…………」
「アレは浄焔。怨念や呪詛を除くもの。そうだね? ルーナ」
ルーナは深く息を吐いた。
問いかけの形を取っていながら実際は断定。先ほどと同じだ。ひょっとすると、この青年の癖なのかもしれない。どちらにしても、既に確信していることを改めて尋ねてくる意地の悪さに変わりはないのだが。
「……どこまで知っているんですか」
「お前のことなのだから、たいていのことは知っているに決まっている」
「…………」
「ルーナ」
柔らかな声。それに変わりはない。だというのに抗えない力を感じるのは、自分が本当に小さな頃からこの男を知っているからだろう。今よりももっと、取り繕うことを知らなかった彼を。
黙り続けるルーナに、ムハマトはため息を吐いた。仕方のない子だ。呟いたかと思うと、困ったように微笑する。
「王を見限り、市井に降りてもなお、王の治世が心配か」
「そういう、わけじゃ」
「そうとしか見えないのだよ」
反論を封じるように、ムハマトはルーナの手を取る。
多くの姫と同じように、労働を知らない手。節くれやあかぎれなど見当たらず、丁寧に手入れしていることが見て取れる華奢なそれに、薄らと残る鞭の痕。
「苛々するのだよ。お前の母を殺し、他にも大勢の罪なき女たちを殺しておきながら――自分だけは幸福になろうなどという、愚昧な輩には」
「ムハマト殿」
「昔は、お前も私を名だけで呼んでくれたというのに」
かつて、王には定められた許婚がいた。
婚姻の時まで互いに顔を合わせることなどなかったが、将来の国母となるべく育てられた女性はこの国の女性一、いや、この国一の魔力を持つ、偉大な魔女だった。
魔法王国マハル。その王族の第一条件は、強い魔力を有すること。
王はけして魔力が弱いわけではなかったが、特筆して強くもなかった。だからこそ組まれた縁談だったのだが、それは若き王の劣等感をいたく刺激したらしい。
婚姻の後、義務以上の関係を持とうとしなかった王は、王妃が懐妊したとわかるやいなやすぐに愛妾を後宮に迎えた。その妾妃とは王太子時代からの仲であったらしく、王の足は完全に王妃から遠のいた。
月が満ち、やがて王妃が産んだのは母親以上に魔力を持つ女の赤ん坊だった。
王妃が出産する直前に、妾妃もまた懐妊していた。初めての子だからと王は妾妃に付きっきりで、王妃が産気づいた時は愚か、生まれた子どもを産湯につけ、母子ともに疲労から眠りについた後も、王が彼女らを訪ねることはなかった。
形ばかりの労いと祝いの言葉を受け取った王妃は、王になにかを期待することを放棄した。その代わり、本来ならば乳母などに任せるべき娘の養育に全身全霊を傾けた。王はそんな王妃の様子に気づきもせず、相変わらず妾妃のもとにばかり通っていた。
冷え切った国王夫妻と対照的に、臣下の前ですらはばかることのない妾妃への寵愛。いずれ妾妃が男の子を産めばその子を王太子とするとまで言い出した王に、誰もが妾妃に取り入ろうと躍起になった。
広い広い王宮で、王妃はたった一人。我が子とともに、ひっそりと過ごした。
ところが。ある日事態は急変する。
いつもより早く執務を片づけ、妾妃を驚かせてやろうと先触れもなく忍んでいった妾妃の部屋で、王は妾妃と男が同じ寝台に入っている場面に出くわしてしまったのだ。
寵妃の裏切り。嫉妬と憎悪で怒り狂った王は、その場で間男と妾妃を胎の赤子ごと斬り殺した。
そしてそのまま、何事かと侍女や下男が固唾をのんで見守る中、切り落とした妾妃の首を持った王は、あろうことか娘と遊ぶ王妃の元へ乱入した。
息を呑み、目を見開いて我が子を抱く王妃に、王は爛々と瞳を光らせ、こう言ったという。
『あれほど私が愛してやったこの女さえ裏切った。ならば、どうしてお前が私を裏切ってないと言えるのか。その子を渡せ! お前の罪を、私自ら贖ってやる』
王妃は我が子を渡さなかった。王の剣から庇うように抱きしめて、身勝手で愚かな男に、激情を抑えながらこう答えた。
『なんと身勝手極まりない。お帰りください! 私はここに来てからずっとひとり。この子が生まれて、やっと孤独でなくなった。この子を奪うと言うのなら、たとえ陛下であっても容赦は致しませぬ』
王は聞く耳を持たなかった。
王宮に入った時点で、王妃はけして王に魔術を向けぬという誓いをたてさせられている。それでなくとも女の身。一撃二撃は避けられたが、一度掠めた刃のせいでとうとう身動きが取れなくなった。
ざくり、ざくり。幾度刃を突き立てられても、王妃はけして我が子を離さなかった。王が乱暴に揺すっても、腕を切りつけても、脅しても。この子だけはと抱きこんだ。
そうして、息絶えるその間際。王妃は我が子に最後の祝福を残し、二度と目覚めぬ眠りに落ちた。
王の乱行が始まったのは、その後からだ。
「呪詛というのは、あながち間違いでもないんです」
「ほう」
「アレは……王に殺されたすべての女の人の怨念が、集まってしまったもの。同じように虐げられたり、理不尽な目に遭ってる女の人たちに引き寄せられて、取り憑いてしまうんです」
そうして、怒りのままに、憎しみのままに、自分を脅かすすべてのものを破壊する。
「なるほど。お前が拾ってくるとサウディが言っていた女たちは、取り憑かれる前に連れだして来た、というところだね?」
「正解です」
本当に、何でもお見通しなのだな、と思う。
最初は、ただ怨念の痕跡をたどっていただけだった。王に殺された女達の無念の想いが、他にもあちこちに散らばっていた女達の情念を吸収してより強大に、凶悪になっていくのを見ていられなくなったのだ。
(だって、あの怨念の核は、きっと母上だから)
国一を謳われた魔力。そもそも、魔力の強い人間は死後もその力が地上に残ってしまうことが多い。本来なら死期を悟った時点で少しずつ魔力の整理をしていくものだが、王の凶刃に倒れた母に、そんな時間があったはずもない。
苦シイ。憎イ。辛イ。憎イ。遠くにいてもわかる、怨念の声。もしあれが母親のものだったらと思うと、やるせない。生きている間だけでなく、死しても苦しんでいるのかと。
追って、追って、追って――苦しみ、傷ついている女の人たちを見るたびに、ほとんど記憶になんて残っていない母親の姿が重なって、放っておけなくて連れて帰った。幼すぎて手を差し伸べることすらできなかった母親の時の代わり。ただの自己満足だとわかっている。
これからもあの火事は続くだろう。怨念の本懐である王の抹殺を遂げるまで。もしくは、遂げてからも。もう何が憎くて何が辛いのかわからなくなって、ただの力の塊になりつつあるソレを、できるだけ早く捕らえたいとルーナは思う。夜ごと王都をさまようのはそのためだ。アジャンタもサウディもあまり良い顔はしないが、昼間に出歩いて王宮に連れ戻されてはたまらない。
きゅっと唇を引き結んだルーナを、ムハマトは微笑みをたたえたまま静かに見つめていた。




