婚約破棄された雨呼び令嬢、砂漠の国では唯一無二の救世主となる
アリス・ヘレクトラという少女には、ひとつだけ人とは違う不思議な体質があった。
嬉しいことがあると、必ず雨が降るのだ。
そのことに初めて気づいたのは、七歳の誕生日だった。
家族や友人たちが庭で祝ってくれるその日、アリスは胸が弾んでいた。期待に満ちた気持ちを抱えたその瞬間、ぽつ、ぽつ、と空から雨粒が落ちてきた。
「わあ、雨……!」
嬉しくて笑ったアリスを嘲笑うかのように、雨はみるみる強まり、やがてパーティーは中止に追い込まれた。家族は「たまたまだよ」と気に留めなかったが、その後も、楽しみにしていた遠足の日、ほしい本を買ってもらった帰り道、褒められた日の夕方――決まって雨が降った。
次第に周囲はこう言われるようになった。
「アリス様が笑っていらっしゃるわ。……ほら、雨が降り始めた」
「なんて縁起が悪いの。嬉しくなると雨が降るなんて」
アリスが喜ぶことは、周囲にとって都合が悪かった。
式典の日に彼女が微笑めば雲が集まり、舞踏会で笑顔を見せれば一転して雨。
やがて誰も彼女を舞踏会に誘わなくなり、アリスは次第に笑わないようになってしまった。喜べば迷惑になる。笑うたびに冷たい視線が集まる。そんな日々が続いた。
それでも、一人だけ違う態度を示す者がいた。
第二王子エドモンド・クルナイダーである。
「気にすることはない。君が笑うと世界が輝いて見える。それだけで十分だ」
彼はそう言ってアリスに婚約を申し込み、彼女は救われた気持ちでその手を取った。
この人となら、喜びを分かち合える。そう信じていた。
しかし、この体質こそが彼女の人生を大きく揺らすことになる。
◇
「アリス。君との婚約を破棄する」
婚約から半年後。王宮の広間で、エドモンドは冷たくそう告げた。
外ではしとしとと雨が降っていた。
今日は彼と会えると思って、アリスは少しだけ胸が弾んでいた。それが雨を呼んだのだ。
「理由は簡単だ。君が嬉しいと必ず雨が降る。……気味が悪いんだよ」
彼の言葉には情けの欠片もなかった。あの時の誓いの言葉はなんだったのだろうか。
「この国では晴天こそが豊穣の象徴だ。式典の日に雨が降っては国民が不安がる。側近たちからも苦情が出ている。もう限界だ」
彼の隣には新しい恋人がいた。明るく快活で、笑うたびに光が差すような令嬢だ。
「彼女こそがこの国にふさわしい。……笑うたびに雨を連れてくるような君ではない」
アリスは言い返せなかった。
嬉しさが雨を呼ぶ――それは事実だからだ。
望まれぬ場所に留まる理由はないと悟り、アリスは静かに息をついた。
「わかりました。……どうかお幸せに」
そう言って広間を後にした。誰もその背中を追う事は無かった。
◇
それから数日、アリスは小さな宿屋に身を寄せた。
行く当ても戻る場所もない。
家族は彼女の婚約を誇りにしていたため、破談をどう説明すれば良いのかわからなかった。
本来、雨は“嬉しさ”の証のはずなのに、今のアリスに嬉しさはない。
気持ちを整理したくて町外れを歩いていたある日、アリスはふと立ち止まった。
その静けさに包まれ、胸の中にほんのわずかだが明るい気持ちが生まれた。
「……晴れてる。きれい」
青空を見た瞬間だった。
ぽつり、と雨粒が落ちてきた。
アリスは思わず笑ってしまった。
――やっぱり私、嬉しいと雨が降るのね
そのとき、立派な馬車がアリスの前で止まり、褐色の青年が降りてきた。
「失礼。あなたがアリス様ですね?」
砂漠の国の王太子、レオン・マルシードであった。
太陽のような瞳を持ち、誠実さが滲む青年だ。
「……求婚、ですか?」
「私の国では雨が極めて少ない。人々は干ばつに苦しみ、畑は枯れ、井戸も枯れかけている。……あなたの雨は、私の国を救う希望なんだ」
アリスは呆然とし、首を振った。
「でも……私が嬉しいときしか降らないのです。思うようには……」
「それで、十分だ。君が笑うたびに大地が潤うなんて、どれほど尊いことか」
そして、彼は少し照れくさそうに肩をすくめた。
「ちなみに私は、どういうわけか“晴れ男”でね。私がいると晴れ続ける。式典も祭りも雲ひとつ出ない。国民は喜ぶが、畑は干上がる……。悩ましいものだよ」
アリスは思わず息をのんだ。正反対の体質――。
「喜びの雨を呼ぶ君と、晴れを呼ぶ私。……互いを補えるのではないかと思ったんだ」
その瞬間、ぽつ、と雨が彼の肩に落ちた。
アリスははっとした。心の奥で、誰かに“必要だ”と言われた喜びを初めて実感したのだ。
「どうか我が国に来てほしい。あなたの笑顔が、雨となって私の国を救うのだ」
差し伸べられた手は、温かかった。
アリスは迷いながらも、その手を静かに取った。
◇
数週間後、アリスはレオンが住む国へと旅立った。
砂と乾いた風が支配する国は、深刻な干ばつに苦しんでいた。
人々の顔には疲労が色濃く、街も畑も乾いたままだった。
「ここが、我が国の現状だ。でも君が来てくれただけで、人々は希望を抱いている」
宮殿の王と王妃は、アリスを涙ぐんで歓迎した。
「ようこそ、貴方の来訪を心待ちにしていました」
それは彼女が初めて“雨女”として歓迎された瞬間だった。
歓迎式典の日。
アリスが人々の前に立つと、胸が温かくなった。
――ここでなら、笑っていいのだ。
その喜びが胸いっぱいに広がった瞬間、空に雲が集まった。
「雨だ! 雨が来るぞ!」
ぽつ、ぽつ――。
やがて柔らかな雨が降り注いだ。
「恵みの雨だああ!」
「ありがとう、雨の姫君!」
子どもたちは踊り、老人たちは空を仰いで涙を流した。
アリスの嬉しさが、この国を救っていたのだ。
「アリス。ありがとう。本当に君がいて良かった」
レオンが隣で微笑む。
彼の晴れ男としての力と、アリスの喜びの雨が見事に調和し、まさに“恵みの雨”となって国土を潤した。
「これから、この国を一緒に支えてくれないか?」
「……はい。喜んで」
アリスは心から笑った。
その笑顔に呼応するように、雨は優しく降り続いた。
◇
一方その頃、アリスを失ったエドモンドの領地では、深刻な事態が進んでいた。
「雨が全然降らない……」
「アリス様が笑っていた頃は、少しでも雨があったのに……」
そう、アリスの小さな喜びが知らぬ間に領地に恵みをもたらしていたのだ。
それに気づかなかったのは、彼女を“厄介者”と誤解していた人々自身だった。
エドモンドもまた、後悔していた。
「なぜ……あの時……」
そう嘆いても、もう遅かった。何故なら彼女は彼らとはもう無縁なのだから。
◇
結婚式の日。アリスは胸を弾ませながらレオンと並んで立っていた。
「今日の君は、いつも以上に嬉しそうだ」
「ええ……。こんなに幸せなのですもの。誰かに必要とされる日が来るとは思いませんでしたから」
アリスが笑ったその瞬間、小雨が降り始めた。
レオンがその雨を受けて微笑む。
二人が誓いのキスを交わした瞬間、雲が割れ虹がかかった。
晴れ男と喜びの雨女、二人が出会ったのはまさに奇跡だったのだ。
アリスの目から涙がこぼれた。それは悲しみの涙ではなく、嬉しさがあふれた“祝福の雨”だった。
こうしてアリスは、ようやく自分の居場所を見つけた。
“喜ぶと雨が降る”という体質は、誰かにとっての迷惑ではなく、国を救う希望となったのだ。
後世、彼女は――「恵みの雨の王妃」として語り継がれることになるのだった。




