路傍の雑草たち
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アレスターこと、漆原謙一郎の渾身のボディブローがみぞおちにヒットした修哉。
意識はある、はっきりとありつつ闘争心も消えていないのだが、いかんせん身体が言う事を聞かない。
首から上を殴られた場合、一気に意識が飛ぶ。脳が揺さぶられ、それこそ気持ちの良いほどに記憶が無くなり、糸が切れたマリオネットの様にクチャリと沈み込むのだが、首から下……内臓を狙って殴られた時は地獄の苦しみが待っている。
肝臓や内臓周辺には鉄壁の筋肉が付き難く、更に末梢神経も集中する事から、内臓自体に痛みは無いのだが、ここに衝撃が加わると、あっと言う間に呼吸困難を起こし、はっきりとした意識下で苦痛に耐え忍ぶ事を強いられるのだ。
まさにそれは拷問と言っても過言では無いのである。
そしてまさに、その状況に藤森修哉も陥っていた。
「ぐっ!ぐええっ……」
まるでトノサマガエルが潰された時の様な声を絞り出して悶絶する修哉。よだれや鼻水を盛大に垂らし、目からは涙をこぼしながら、腹を押さえて地面をのたうち回っている様は無様としか言いようが無い。
だが、それでも修哉には修哉の意地がある。彼にとっての戦闘不能は即ち死を意味し、負けられないのであれば、ひたすら立ち上がって闘うしか無い以上、単純な話、痛みを無視して立ち上がるしか無い。
「ぐうっ、おえっ……」
喉の奥から勝手に悲鳴が湧き上がる中、それでも痛みを無視して立ち上がる。
勝ち誇るとまではいかないものの、安堵の表情を見せていた漆原謙一郎も、さすがにこれには驚いた。
「無理すんな、お前さんの負けだよ」
「……まだだ、まだやれる……」
よだれと鼻水を拭い、腹を押さえて背中を丸めながらも、よれよれの両足でなんとか踏ん張った。
ーー激痛と呼吸困難の中、修哉には見えて来たものがある。
この闘いのきっかけとなったのは無論、漆原の恐るべき挑発からである。……修哉の心臓をロックオンしたと言う漆原の宣言、それが引き鉄だ。
そして今ほど、修哉に渾身の一撃を見舞いダウンを取っても、更に追い討ちをかけたり、殺そうとはして来ない。
とにかく憎い、殺してやりたいと切望していた越ヶ谷美雪とは、全く異質の感情を持って修哉と相対している事に気付いたのである。
では、その全く異質の感情とは何か……?
其れ程この漆原謙一郎と言う人物との接点が無いので、心中を探るのは困難ではあるのだが、修哉自身が持っている確実な情報の断片をジグソーパズルの様に繋げてみる。
一つ、漆原謙一郎とは数回会っただけで挨拶すらしていないが、彼は常に冷ややかな目を向けて来た。それはつまり、藤森修哉の容姿や人格に嫌悪を抱いているのでは無く、修哉の【仕事】に嫌悪を抱いている。
一つ、桜花との合同作戦……つまり「あちらの世界」での最後の仕事の際、車内で修哉に因縁をふっかけて来た袴田哲臣を制止して諌めた事から、暗殺者藤森修哉の殺しに嫌悪を抱きながらも、人としての分別は持ち合わせている。それも、嫌いな人間を助けようとするのだから、己に課した厳しいルールが漆原には存在する。
一つ、この法律など存在しないかの様なやりたい放題の世界において、アレスターとしての能力を行使して藤森修哉を殺さず、更にトドメを刺そうともしない。
一つ、藤森修哉にあれだけ殴られながら倒れずに、何故其れ程意地になっているのかと問うと、惚れた女の為だと答えた。
これらの情報を合わせて、修哉は今現状で出せる精一杯の答えを導き出した。【漆原謙一郎にはヒーロー願望、英雄願望がある】と。
だから暗殺者を許せずにいながらも接触を試み、何かを伝えようとしているのかも知れないし、もしくは、何か腹の底に秘めた理由を頼めるかどうか、藤森修哉を試しているのではと判断したのだ。
だが、ここで修哉の「骨な」部分が出てしまう。
漆原謙一郎が何かを訴えようとしているなら、上手くそれを聞き出そうと配慮すれば良いものの、それよりも何よりも、漆原のそのヒーロー願望がどうにも許せなくなり、漆原に向かって大声で吠えたのだ。
「ヒーローに何が出来る!?英雄に一体何が出来たって言うんだ!」
「な、なんだ?……急に何を言い出しやがる」
「時代を作って来たのはヒーローでも英雄でもない!お前らの影で手を汚し、殺し殺されを続けて来た、有象無象の無名戦士たちが時代を作ったんだ!」
「……無名戦士だと?」
「チンギス・ハーンじゃない、ナポレオンが作ったんじゃない、レーニンがスターリンが、坂本龍馬が時代を作ったんじゃない!無名戦士だ!名前も知らない路傍の雑草たちが、血みどろの闘いで命と引き換えに時代を作ったんだ!」
ーー確固たる揺るぎない思想と信念の元に自分に必要以上のルールを課し、その生き様と闘い方に枷をはめるヒーロー。
ヒーロー又はその英雄が説く思想や信念に人々は共感を抱き、その指示や指導の元に闘いを遂行して行く。それこそ命を投げ出してだ。
私立探偵ディック・トレイシーやマイク・ハマー、荒くれ刑事のハリー・キャラハンなどハードボイルドヒーローは、活躍の場がごく限られて、時代を動かすまでには至っていない。
また、シモ・ヘイへやオットー・スコルツェニーの様な実存する戦場の英雄たちも、局地戦で戦果を上げただけで、戦局やその後の時代を左右した存在では無い。
漆原謙一郎のヒーロー願望が、歴史上の英雄に影響されているのか、それとも近代の創作ヒーローに影響されたのかは分からない。そもそも漆原が独自に作り上げた生き様なのかも知れないが、それに対して修哉は烈火の如く怒りを見せる。
手を汚さない奴の影で、どれだけの人間が手を汚していると思っているか、お前は分かっているのかと。
つまり、東西南北にその名前が轟く様な英雄は、無数の無名戦士たちの屍で成り立っている以上、お前のその綺麗な手の裏側で、血まみれになっている者たちがいる事を、絶対忘れるなと吠えていたのである。
修哉の激昂する姿に鼻白んだ漆原であったが、修哉の言葉を噛み締める事で、今度は彼にも分かって来た事がある。
修哉が英雄願望やヒロイズムを真っ向から否定する事で、藤森修哉は自分をダークネスヒーローや闇の英雄とは思っていないと言う事が理解出来たのだ。
……暗殺者である事を美化せず、自分を飾る事すらしない藤森修哉。彼はこの世界にやって来て大切な存在に巡り合っても尚、生き方を変えようとはしていない。
亡国の姫に肩入れして、クラースモルデン共和国相手に大戦争を起こすのだと、莉琉昇太郎から話は聞いたが、藤森修哉は英雄としてその中心に立とうとはせずに、あくまでも無名戦士として暗殺者として、血塗られた道を歩んで行こうと言う事か……
「……馬鹿野郎、ジョン・ランボーにでもなった積もりか……」
ポツリと自分にしか聞こえない声で呟きながら、口元に微かな笑みを浮かべる漆原。
単なる殺し屋として忌み嫌い、人殺しとして軽蔑していた藤森修哉が、今はやけに眩しく見える。なるほど、愛する者の為なら鬼にも修羅にもなるってかと……修哉の胸の内に秘めた想い、それに触れた漆原は、サバサバとした表情になり、改めて修哉と向き合った。
決心がついたのである。
「なるほど、お前さんにとって、あのお嬢ちゃんが大切なのは良く分かった。……お前さんのロックオンはやめたよ、あのお嬢ちゃんにするわ」
突然そう言うと、漆原はくるりと踵を返して歩き出そうとする。もちろんそれは、自分の能力の射程距離内にエマニュエルを捕らえる為だ。
何故漆原がいきなりそんな事を言い出したのかは理解出来ない。しかし口から出た内容は修哉にとっては戦慄を覚える程の重大な内容である。
漆原の心意を探ろうとしていた状況とは全く違い、エマニュエルに被害が及ぶなど、絶対に許す事の出来ない局面なのだ。
修哉の瞳が絶対零度の殺意と殺気に包まれる
「……漆原……ディメンション……うっ!?」
その時だ、修哉の鼓膜ではなく、脳内にダイレクトに聞いた事の無い女性の声が轟いたのだ。
【待ってフラット・ライナー!】




