先生
ソビヤンコとともに晩餐の片づけが終わったナシェは、ヴィンセントの部屋の前まで行き、ドアをノックした。
「はい」
部屋の中から返事が聞こえた。
「ヴィンセントさん、ナシェです。失礼します」
本を片手にヴィンセントの部屋のドアを開ける。
彼は机の前に座っており、こっちに上体を向けていた。
ろうそくの明かりが彼の顔半分を照らし影をつくっている。
まるで聖ギールの彫像のようで、ナシェは思わず見とれた。
「ナシェ君。どうぞこっちに」
ヴィンセントが座っていた椅子をベッドそばへ移動し、彼に座るように促した。
ナシェは、は、とし、促されるまま椅子に腰かける。
ヴィンセントはベッドに腰をおろした。
「学校が始まるみたいでうれしいです。はやく始まってほしい」
ナシェは向かい合ったヴィンセントに笑いかけた。
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晩餐のとき、ファンデイム院長が皆の前で言ったのだ。
ヴィンセントに村の子供たちの先生となってもらい、キエスタ語の授業をしてもらうことに決定したと。
できれば、将来的にグレートルイス語も子供たちに教えてやってほしい。
そして、私たち兄弟もヴィンセントにキエスタ語を教わりましょう、とも。
キャンデロロ副院長だけはむっつりした顔をしていたけども、ほかのみんなは、ほ、とした顔をしていた。
ナシェはうれしくてヴィンセントに笑いかけた。
しかし、当のヴィンセントは複雑な表情をしていた。
それに気づいたファンデイム院長が彼に聞いた。
何か不満があるのですかヴィンセント、と。
彼は答えた。
『私にできる仕事を与えてくださったことを感謝いたします。しかし、今まで皆さんが教えてくださった仕事も続行させていただきたいのです』
その言葉に、パウルはおどろいたようにヴィンセントを見つめ、長老たちは目を見開いて顔を見合わせ、ドミニクは『いやいやヴィンセント、結構ですから。』と、あわてて手をふり、カールは面白そうに口笛を吹いた。
『みなはこういう反応を示しておりますが、ヴィンセント』
ファンデイム院長は困ったような表情でヴィンセントに返す。
『……いいんじゃねえか。本人が学校の先生もここの雑用も並行するって言ってんだから』
そう言ったのは意外にもそれまで黙っていたキャンデロロ副院長だった。
『どちらもおろそかにしないでやる自信があるんだろうよ』
キャンデロロはヴィンセントを射抜くようににらみつける。
『そのかわり、今度俺の邪魔をしやがったら、そのときこそてめえの首を刈り取ってやるからなバッキャローが』
キャンデロロの気迫はナシェなら震えあがってしまいそうなものだったが
『自分がした行為を省みて、今後同じような過ちを繰り返さないようにいたします。もう一度、皆さんから機会をいただきたいのですが』
そう、顔を上げて皆を見返すヴィンセントに修道士たちは顔を見合わせた。
『……しかしヴィンセント。聖歌に関しては、君がいくら努力しても難しいとは思うがね』
サム修道士が言いにくそうに告げ、隣のビルケナウ修道士もうなずく。
『それはわたしも無理だと承知してます。歌は無理ですが、オルガンなら多少弾けます』
『オルガンが弾けるのかね?』
サムがびっくりした声を上げた。
『なんとまあ』
今までオルガンを弾いていたのはサム修道士だが、彼は老齢の為最近指のこわばりがひどく、演奏は難しくなっていた。
『それは、ありがたい。弾いてもらえればそちらのほうが助かります』
『練習させていただければ、なんとかなると思います』
ドミニクが目をキラキラさせ、同意を求めてパウルの方を見やった。
パウルはうっとおしげにドミニクさまの言いたいことは分ります、と答え、胸の内でどこまで王子だよ、とつぶやく。
『ではみなさん、ヴィンセントがこう申しておりますが、いかがいたしますかな?』
再びファンデイム院長が皆の顔をうかがう。
しばしの沈黙のあと、ソビヤンコ修道士が手を上げて言った。
『もういい、と私が言ったときに、厨房を出て行ってくれるならば私は問題ないです』
『右に同じ』
と隣のカールが告げた。
『私たちは、もう』
サムとビルケナウは顔を見合わせてうなずいた。
『ヘマをやらかしたらてめえのケツに鎌の柄を突っ込んでやる。その覚悟があるんなら、来な』
キャンデロロがヴィンセントの目を見据えて宣言した。
『と、いうことです。ヴィンセント、皆が与えてくれた機会を無駄にしないように』
ファンデイム院長が不安げな表情で言い、
『ありがとうございます』
とヴィンセントは頭を下げた。
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「私としても初めてです。大勢の方に教えるということは」
ナシェに向かってヴィンセントが答えた。
「アキドが……僕の友達です。言ってました。字の練習ばっかりするのはイヤだって。お菓子をくれるんなら行ってもいいや、なんて言ってました」
「それは、やり方を考えないといけませんね。……ナシェ君は、どうして学校が始まって欲しいのですか」
ヴィンセントが聞いた。
ナシェは一瞬答えに詰まったが、考えて答えた。
「おんなじように本を読む友達が増えてほしいからです。本の話について、いろいろ話したいからです。僕が朗読するのを聞いた話じゃなく、自分が読んだ話についてみんなの意見を聞きたいからです」
「ナシェ君は本が好きなんですね」
「大好きです。ほんとは、一日中本を読んでいたいくらいです。仕事がなければ」
ヴィンセントがナシェの手に持つ本に目を移した。
ナシェはヴィンセントに本を渡した。
「キエスタの昔話、ですね」
表紙のすりきれた、題名も消えかけている本は、バザールでドミニクが購入してくれたものだ。
ぱらぱらとヴィンセントがめくると、ページのいくつかはちぎれてしまいそうだった。
「ナシェ君を見ると私の友人を思い出します」
ヴィンセントがページの字を目で追う。
「彼も、君のように本が好きで一日中読んでた。食事の時もです。行儀は悪いですが食べながら読むなんてすごく器用だと、思った記憶があります。おかげで彼は目を悪くして今は眼鏡をかけていますが。読みすぎはいけないと思います。特に、こんなに暗いところで読むと、ナシェ君の目は悪くなってしまう」
「それはほかの人たちにも注意されています」
ナシェはうなだれた。
「彼は大きくなって図書館の仕事につきました。一日中、本を読むことができて幸せだと言っていました」
「いいなあ」
ナシェは目を輝かせた。
「僕もそんな仕事につけたら。毎日が来るのが楽しみです。次はどの本を読もうかと、わくわくします」
ナシェはヴィンセントの顔を見上げた。
「図書館、というところに行ってみたいです。本が数えきれないくらいあるのでしょう? ここのみんなに聞くと、キエスタでは本格的なのは首都オデッサぐらいしかないと言っていました。小さいものなら、多少大きな町にあるかもしれないけど」
「オデッサに行ってみたいですか?」
ヴィンセントが聞いた。
「行ってみたいです。でも、行くことはないかなと思います。ここの村の人のほとんどが、この村を出たことはないです。出稼ぎに行く人だって、一番近い町ぐらいだし。……ヴィンセントさんはオデッサに行ったことがありますか?」
ヴィンセントはうなずいた。
「とても美しい都市です。建物はタイル貼りで、美しい模様です。道行く人の衣装もとてもきれいです。キエスタ西部の人は、凝った模様の民族衣装を着ています。色とりどりで鮮やかで。……そして、ここと同じように街のむこうにケダン山脈が見えます」
オデッサの風景を思い出しているのか、ヴィンセントの目が遠くなった。
「キエスタ人なら一度は行くべきだと思います」
「いつか行ければいいけど」
ナシェは答えて、ヴィンセントがめくるページに目をやった。
「ああ、金の馬だ。私が好きな話です」
ヴィンセントが手を止める。
「知ってるんですか?」
ナシェは驚いて訊き返す。
「ええ。主人公が間抜けすぎて兄弟たちにお金も金の馬も盗られてしまう話でしたね」
こくこく、とナシェはうなずいた。
「僕も好きな話です。金の馬が死んじゃうのは、かわいそうだけど」
「最後に、死んだ金の馬の首を切ると、中からお姫様が出てきますね。主人公はなにもかもなくしてしまったけど、お姫様だけは手に残った。それだけで主人公は満足した」
二人は顔を見合わせて視線を交わした。
初めて感じる共有感に、ナシェは胸が高鳴った。
「私は読んでる途中、主人公が兄弟たちにあまりにも騙されるのでイライラしました。なんて間抜けなんだろうと」
「そうですか。僕は、お人良しのいい人だと思いました。だからお姫様は主人公のところに行ったんだと思います。……先生に、少し似てると思います」
ナシェが言うと、ヴィンセントはナシェに問いかけるような表情で見返した。
ナシェは恥ずかしそうにうつむき加減で言った。
「ヴィンセントさんのことを、先生とこれから呼んでもいいですか。そっちのほうが呼びやすいから。先生もこれから僕のことをナシェ、と呼んでください」
そう、ナシェが言って顔をあげると
「わかりました、ナシェ」
ヴィンセントはうなずいて口の端を緩ませた。
そして本のページに目を戻した。
「じゃあ、本題に入りましょう。遅くなってはいけません。どこがわからない言葉なのですか」
本をナシェの方に向けて聞く、ヴィンセントの顔をナシェはしばらく見つめていた。
迷っているような考えているような顔をしていたが、ナシェは思い切って口を開いた。
「先生」
「はい」
ヴィンセントが微笑んで返事をする。
「……先生は、北の国の言葉も使えますか」
ヴィンセントの顔から笑みが消えた。
すきま風が入るのか、ろうそくの炎が揺れ、変化する光と影に彼の表情も揺れているように見えた。




